「火渡りの神事」が有名です。
小天神社(小天天子宮) / / .
静かなところでした。
「火渡りの神事」が有名です。
時の国司道君首名(みちのきみのおびとな)は、疫病収束の祈願がついに成就したことを祝い、翌年(和銅7年、西暦714年)出雲大社を雛形とした社屋を造営、出雲の地を思い、背後に聳える山に熊野宮を勧請し熊野岳と命名したとあります。
熊ノ岳の名前の由来は今から1300年ほど前のここにあるようです。
現在の天子宮は戦国期に一帯を治めていた三名字の田尻氏が自らの城地を空けて遷宮したもので、第三次の宮地といわれます。
初めの宮地は上有所集落中、現在観音堂が祀られている場所にあったといいます。
今も天子宮の火祭りの焚き付けは上有所観音の裏の竹でないといけないといわれます。
そこは火の神祭りの焚き付けを採る歴史的伝説の地とされているそうです。
1300年ほどのむかしではありますが、7日7夜火を焚いての祈願・祈祷で疫病を忽ち終息させた霊験あらたかな神社です。
交通安全ステッカーを買った。
天子宮ともいいます。
天津・国津・天神でも無い表記ですよね。
社伝によると、和銅6年(713年)国司として肥後国に下向した道君 首名(みちのきみ おびとな)によって建立されたといわれます。
道首名(みちのおびとな)とは、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての貴族です。
姓(かばね)は君(きみ)または公(きみ)です。
青年の頃から律令を学び、官吏の職務に明るかったといわれています。
文武天皇4年(700年)大宝律令撰定の功により禄を与えられた(この時位階は追大壱)。
律令撰定に携わった19名のうち、道首名は唯一律令を専修していたとされる。
大宝元年(701年)4月に右大弁・下毛野古麻呂らと共に諸官人に対して新たな令(大宝令)の講説を、同6月には大安寺で僧尼令の講説を行っています(この時の位階は正七位下)。
和銅4年(711年)従五位下に叙爵。
和銅5年(712年)9月に平城京へ遷都後初の遣新羅大使に任ぜられ、同年10月に辞見しました。
和銅6年(713年)8月に帰還しています。
和銅6年(713年)8月に筑後守に任ぜられます、後に肥後守も兼任した。
官位は正五位下。
道首名が没して約150年後の貞観7年(865年)には良吏であったという理由で従四位下の位階を追贈されています。
中央でのこのような顕彰とは別に、彼の任地であった筑後・肥後地域では、卒伝にある通り後年(一部では現在)まで彼が祀られて信仰が続いています。
大宝律令の選定に携わる一方、地方官としても治績を挙げ、死後も長く良吏として記憶されたました。
道首名は、筑後・肥後の任地においては、人々に生業を勧め、耕作経営や耕地に果樹や野菜を植えること、鶏や豚の飼育方法まで規定を制定し、時宜を尽くした方法を教えました。
またしばしば任地を巡行し、教えに従わない者に対しては程度に応じて処罰を加えました。
当初、人々は内心恨んで罵ったりしておりましたが、収穫が増えるにつれて皆喜び従うようになり、1~2年のうちに国中の人々が皆従うようになったといわれています。
また溜池や堤防を築いて灌漑を広め、安定した水稲耕作を可能にした。
肥後国の味生池(あじうのいけ)や筑後国の数々の溜池は首名が造ったものという。
この地の人々がその後もこの水利の恩恵を受けて生活が充足しているのは道君首名のおかげであるとされています。
日本古代史学者であるお茶の水女子大学名誉教授の青木和夫氏によれば、道首名が律令を学ぶ傍らで中国の農業書をも読んでいたと推定しており、そのために先進的な中国の技術を用いた農事指導、溜池築造を行えたのだろうと述べておられます。
社伝では、当時疫病が大流行したため、小天において医療の神である少彦名神と大名持命(大国主神)の神二柱に観請し祈願を行ったところ、疫病は治まり人々も治癒したそうです。
そこで道首名は出雲大社を模して神社をこの地に造立したと伝えられます。
この他にも味噌天神など多く地域にその名が残る良使でありました。
現在、小天宮では、毎年10月15日に行われる焚火の炭の上を素足で通る火渡の神事が有名ですが、これは首名が疫病治癒を願った時に火の中を歩いて無事だったという故事によるものです。
名前 |
小天神社(小天天子宮) |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
0968-82-3153 |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
4.0 |
歴史は古いが普通。