結構痛んでいるのと夕暮れ前だったせいか。
R442を久住町方へ進むと左側、道沿いに神社はある。
鳥居をくぐると狛犬、楼閣、拝殿である。
瑞垣の外の並木群と水路の景色がゆったりした気持ちにさせる。
境内には大木群がどっしり構えていて心を落ち着かせる。
大木の祠の前の狛犬の顔ががほほえましく、人なっこくさせる。
2023.03.19参拝 雰囲気からすべてがかなり良い。
紅葉時期に行きました✋綺麗でしたよー😆🙌
景行天皇ゆかりの神社ということで、参拝しました。
水路を渡って中に入るのですが、水の流れる様が美しく、またその音も心地良かったです。
いつも綺麗に清掃してあり気持ちの良い神社です。
とても古い神社です。
楼門がとても立派。
結びの木があり、縁結びの御利益もあるそうです。
楼門や参道が本当に神秘的で、心癒される空間です。
秘境です!✨正面(東側)は階段ですので、車椅子など足の不自由な方は、北側の鳥居から入れます!
景行天皇に由来する神社らしい。
熊襲征伐に九州に上陸した景行天皇は今の佐賀関付近の速津媛に出迎えられ禰疑野に土蜘蛛(青 白 打猨 八田 國摩侶)が居ることを伝えられる。
まず青 白を討った景行天皇は打猨を討とうと禰疑山に向かうが雨のように矢を射られこの城原まで撤退する。
この地で態勢を整えた景行天皇はまず禰疑野で八田を破った。
勝てないと悟った打猨は恭順の意を示すが許されず自ら谷に落ちて死んだ。
とされる。
南西に10km程の場所に禰疑野神社などの史跡も残る。
俵積神社-城原八幡宮-禰疑野神社がほぼ一直線上にあるのは興味深く、ほぼ一直線に進軍していたのかもしれない。
そうなるといくつもの川を渡る必要がある難所を超えての戦いであったのかもしれない。
復將討打猨、侄度禰疑山。
時賊虜之矢、横自山射之、流於官軍前如雨。
天皇、更返城原而卜於水上、便勒兵、先擊八田於禰疑野而破。
爰打猨謂不可勝而請服、然不聽矣、皆自投澗谷而死之。
書紀 景行十二年冬十月 より。
ほとんど人がお参りしないけど大木がたくさんあって落ち着きます。
境内にある狛犬の顔がなんとも言えない愛らしさ。
神社の近くの松原公園の紅葉です。
バツグーでした😉
毎年恒例の城原夜神楽に親子で行ってきました。
が!相変わらずの子どもたちの無法地帯。
今時の子どもたちは人を思いやるということを教わっていないとみえます。
神秘的な場所です。
小さい頃から城原祭りに行ってます。
神楽も有名です。
普段静かな場所です。
神聖な場所で身が引き締まる思いでした。
景行天皇ゆかりの伝承が残る神社です。
元々の社殿は、島津の兵火にかかり焼失したようです。
戦乱で失われた神社、思ったより多い気がします。
大きな御神木と楼門が印象的です。
城原八幡社(きばるはちまんしゃ)御祭神: 大帶日古淤斯呂和氣命(景行天皇) 宗像三女神(多紀理毘賣命 市寸嶋比賣命 多岐都比賣命) 品陀和氣命(応神天皇) 息長帶比賣命(神功皇后) 当八幡社の社記によると、この地方の人々が、景行天皇熊襲征討の折、城原方面へ軍をすすめて巡幸になり、現在の社地松原に滞在した時の行宮の跡を尊び、応神天皇幸卯二年に、一祠を造営したのに始まるという。
その後、文徳天皇の天安二年(858)、二月神境内の礎村の景樹の地に八幡宮降臨の霊瑞があって時の国司石川朝臣宗継をして、殿宇を造営、八幡宮を配祀させたという。
この霊瑞の跡は、今も近くの宮久保の社地に「八幡大神降臨の地」の碑が建てられて残っている。
九州へ源為朝が来て騎牟礼山を居城としたとき、為朝が城原神社を訪れて大廃を見て社伝を再建し、社をこれまでの南面のところを改めて東向きとし御霊武内二宮並びに弥勒阿弥陀堂の二堂と鐘楼を建立したという。
静かで風格があり、昔の繁栄の話を古老から聞いた。
名前 |
城原八幡社 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.1 |
山奥の神社ではありませんが、結構痛んでいるのと夕暮れ前だったせいか?新緑の季節というのに落ち葉が残っていたり、とても寂しいところでした。