そばを提供している時期には、中に入ることができます...
月心寺(げっしんじ)は、滋賀県大津市大谷町にある臨済宗系単立寺院。
山号は瑞米山。
京、大津への玄関口、逢坂山の関所を控える、かつては東海道随一の賑わいをしていた追分の地で繁昌していた走井茶屋の跡。
境内には今も枯れることなく走井の名水が湧き出ている。
逢坂関を越えた山が迫る狭い土地で、街道を挟んで両側に家々がぎっしり建ち、谷間を埋めており、大津絵や大津算盤、縫い針などの大津特産の土産物を売る店や茶店がひしめき、旅人と牛馬の往来が多い賑やかな場所に位置していた。
歌川広重が描く「東海道五十三次」で、溢れ出る走井の水のそばの茶店で旅人が休息しているのが見られる。
その茶店がこの月心寺である。
今から650年程前に貴族の別邸として作られ、その当時のまま残されているお庭を見ながら頂くお蕎麦の味は忘れられません。
小野小町終焉の地と言われている。
春〜秋は本当に美しい。
橋本関雪夫妻の別邸であり墓所、走井や小野小町100歳の像があるそうです。
拝観は10名から要予約、名物胡麻豆腐をはじめとした精進料理も10名から要予約です。
出川さんが役者になろうと目覚めた聖地。
月心寺(げっしんじ) へは、京阪電鉄京津線の大谷駅を降り、改札口を出て左へ行き、すぐ左手にある歩道橋を渡ります。
歩道橋の階段を降り、そのままの方向(西)へ5分ほど歩きます。
1号線横を歩いて行きますので、交通量が多く、車がびゅんびゅん通るので、排気ガスが気になります。
月心寺には駐車場はありません。
歌川広重(うたがわひろしげ)の東海道五十三次にある大津の浮世絵には、あふれ出る走井(はしりい)と茶店が描かれています。
この茶店が現在の月心寺といわれているそうです。
見学は10名以上で予約が必要とのことで、中は見学することが出来ませんでした。
良いね!橋本関雪画伯大事された、走井庭園です。
鎌倉時代末期作庭また刀鍛冶の宗近氏が走井の水で刀を砥がれた等歴史有るお庭です。
今は、月心寺だが、昔は走井の茶屋でありました。
東海道沿いにあるこの寺は井戸は直接みられないが塀越しにみることができます。
滋賀と京都の山境にある追分のちにあります。
溢れんばかり井戸から水がでて、たびびとののどをうるおしました。
そこには、たくさんの茶屋があり、休み処でありました。
走井のみずをつかってもちをついて、旅人にだしていました。
これが走井餅のはじまりです。
六代目井口家からは、京都の岩清水八幡宮の門前町にうつりました。
大津創業地は廃止されそのあとが月心寺になっています。
そしてこの追分の地は、大津絵やそろばんなんかも売っていたそうです。
逢坂山辺りの東海道線は、車石でゆうめいで、坂がきついので石が敷いてありました。
牛車が通っていました。
右側が車石で左側がつちの道であったようです。
このあたりの、東海道沿いのお寺に車石がのこっています。
みなさんもこの辺りをあるいて探してください。
あまり知られていないかもですが、素晴らしい庭園です。
一般公開されているタイミングが限られるので、公開日は月心寺さんのFacebookをチェックしてください。
タイミング次第で庭園を見ながら美味しい蕎麦まで食べれます。
湧水「走井」は入り口すぐにあります。
広重東海道五拾三次大津走井茶店に描かれているのと同じものでしょう。
三条小鍛冶宗近は粟田口辺りから通って刀剣を鍛えたのでしょうか。
お庭が最高です。
普段は中を見ることはできませんが、そばを提供している時期には、中に入ることができます。
要確認。
大津市逢坂大谷町の月心寺歌川広重の東海道五拾三次に大津宿として描かれた街道名物走井餅の発祥の茶店跡地で名水湧水の走井井戸が現存する正確には此処は大津宿では無く逢坂峠(おおさかとうげ)逢坂山または大津追分と呼ばれる地域広重の作品に有りがちな誤写で浮世絵の構図が反転している明治時代後期に逢坂山トンネル開通で東海道線が開業し東海道も国道1号線として大改造され交通要所としての役割を終えた大津追分は東海道一と云われた繁忙から一変急激に過疎化し走井茶店は廃業を決断した跡地が売却された後は別邸御寺、料理屋を経て2016年現在土日限定で蕎麦屋を営んでいる庭園の観覧も可能(観覧料¥500)走井餅は井筒八ツ橋追分店内の"走り井餅本家"と創業家井口家六代目四男の分家の系譜が続き"やわた走井老舗"として京都府八幡市で営業を続けている。
名前 |
月心寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
077-524-3421 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.8 |
(百歳堂(ももとせどう)の小野小町について)日本の伝説/柳田国男/昭和4年?/咳のおば様京都から近江へ越える逢坂の関に百歳堂としてあったのも関の姥神らしい。
後に関寺小町といい、小野小町が年をとってここにいたという。
今の木像は短冊と筆を持った老女の姿だが、以前はもっと恐ろしい顔の石像で、その前はただの天然の石だったかもしれない。
※上記の本に記載は無いですが、「関寺小町」は世阿弥作と言われる謡曲で、老女になった小野小町を描いたものです。
また、複数のネット情報では、小野小町像は運慶作と伝えられ、もとは逢坂の関の関寺(976年の地震で倒壊、今は長安寺が跡地に建つ)にあったものを初代が譲り受けたという記述もいくつか見受けられました。
これに対し、柳田国男の言う関の姥神は道祖神のことを指しているようです。