1024年頃没したと伝えられ白亳院があったされるこ...
小野篁卿墓・紫式部墓所 / / .
この紫野の地に藤原貴子として971年頃生まれ、源氏物語の作者 紫式部 は晩年を愛着のあった紫野の当時広大な雲林院で過ごされ、1024年頃没したと伝えられ白亳院があったされるこの地に祀られたと伝えられています。
ただ当時の人々は、源氏物語のふしだらな絵空事が死後地獄行きを心配し式部の墓所の横に小野篁の墓を遷し閻魔大王に御願いして戴き式部を救ったと伝えられています。
あくまでも伝承ですが?
まさかこんな街の片隅に紫式部のお墓があろうとは、と言った感じです。
敷地の中は、厳かな雰囲気で、紫式部のお墓がひっそりと佇んでいます。
紫式部は、雲林院のある辺りに生まれ育ったと言われている。
この紫式部の墓所は、その雲林院の東にあり、『源氏物語』賢木では雲林院て源氏が逗留したことが描かれている。
「雲林院は、亡き母桐壺の御息所の兄君の律師が籠っているお寺であったが、源氏はそこで経典などを読誦し、また朝夕に勤行などをしたいと思って、二、三日逗留したのであった。
そのうちには、しみじみと心に沁みることばかり多かった。
」、とある。
元々、紫式部の墓は別な場所にあったらしい。
しかし、紫式部は源氏物語を書いた当時、その内容から周りの人々から紫式部が地獄に落ちると思われていたのでそれから救うために、閻魔大王の補佐をしたとされる小野篁(おののたかむら)の墓の側に移したのが今のお墓と言われている。
当時の人々の心の在り方が垣間見得て面白い。
けっこう大きなお墓ですよ☺️There are graves of Ono no Takamura and Murasaki Shikibu. It's a pretty big grave ☺️
以前から車で通るたびに気になってたのですが、ようやく訪れる事が出来ました。
訪れた時は紫式部の碑にムラサキシブが綺麗に咲いていて良かったです。
入り口だけを見ると小野篁の碑よりも紫式部の碑が目立つので紫式部のお墓と思いがちですが、ここは紫式部が生まれる前に先に没された小野篁のお墓でもあるのですが、同じ歌人同士だからか何故時代の違う二人のお墓が隣接しているのかを調べると色々と面白いです。
しかし、後から出来た紫式部の墓のほうが大きいのは何故?車を止めることが出来ない場所なので、訪れる際は少し離れたコインパーキングに止めるか、公共交通機関と徒歩か自転車になります。
墓所があるとは思いませんでした。
ビックリです。
「紫式部」はさておき、「小野篁」の墓は有名人だけに寂しいです。
「百人一首」の一番好きな歌、「、、人には告げよ あまの釣り舟」気骨と知恵の人はここに?!近所の縁の上善寺の六地蔵(鞍馬口地蔵)にもどうぞ。
六道珍皇寺に行ってしばらくの時だったので、たまたま口コミを見て訪れてみました。
何の知識もなければ、気になることもないし、通りすぎる場所にあります。
しかし、閻魔様のもとで働いていたと言われる小野篁のことを知っていたので訪れました。
少し道を入るとすぐに小野篁と紫式部の墓所になっており並んでいます。
こぎれいに掃除されており、何やら涼しげなのは気のせいでしょうか。
小野篁や紫式部の説明も石碑にあり、勉強になります。
歴史上の人物なので現実味がないような、ましてや小野篁においては様々な伝説もあるので感慨深いものがありました。
2020年2月24日紫式部さんの墓参りに行ってきました!
こんな町中に紫式部と小野篁のおはかがあるとわ。
中は不思議なぐらい静かで涼しく綺麗にされています。
堀川通りの島津製作所隣にポツンとあります。
知らなければ素通りしてしまいますね。
篁と式部が一緒になっているのかは、言い伝えがあるようですでググってみてください。
面白いですよ。
日本文学史にも名を残し、日本人なら誰でも知っている名著『源氏物語』作者である紫式部の墓所が北大路堀川に。
その隣に閻魔大王の補佐役を務めたとされるあの世の仲介人・小野篁のお墓も。
堀川北大路を南に下がった西側、少し奥まった所に二人の墓がならんでいる。
小野篁は平安初期、官吏でありながら、夜は冥界の閻魔に仕えたという伝説を持つ。
紫式部は、ご存知、源氏物語を執筆した平安中期の女流小説家。
この、意外な組み合わせ。
能「源氏供養」みたい。
石山寺で、安居院法印の前に、紫式部の霊が現れ訴える。
「源氏物語を供養しなかったため、成仏できずにいる」と。
安居院の供養により成仏した紫式部は舞を舞うというストーリー(端折りすぎや!)。
ここの場合は、愛欲の世界を描いた紫式部が、人を惑わせたとして、閻魔の審判を受け、地獄へ落とされそうになったその時!弁護士・小野篁登場って感じでしょうか?「狂言綺語をふり捨てて、紫式部が後の世を助け給へ」入口の紫式部墓所の碑にムラサキシキブの色づいた実がふりかかる。
秋が来るなぁ。
ひっそりとしています。
後から紫式部の墓が移されたそうですがなんか小野篁の方が借りているような感じでした。
紫式部顕彰碑紫式部は藤原為時を父として天延元年(西紀937年)頃に生まれました。
名は未詳であるが、香子といった可能性が多い。
祖父も父も歌人、詩人であった関係から彼女も幼時より学芸に親しみ、穎脱したその才能は●に認められていた。
長保元年(999年)藤原宣孝の妻となり、翌年娘の賢子を産んだが、同三年、不幸にも夫を喪った。
寛弘三年(1006年)頃、内覧左大臣藤原道長の長女で一條天皇の中宮として時めいていた章子に仕え、候名を父の官名に因んで式部と称した。
式部は侍講として宮中に漢文学を教授する傍ら「源氏物語」の執筆に励み寛弘六年頃この浩翰な物語を完成し、世界文学史上に輝かしい記念塔を建てた。
寛弘七年頃には、日本思想史上の上で稀有な虚無的人生観をこめた「紫式部日記」を纏め上げた。
晩年には引き続いて中宮の(後に上東門院)側近に仕え、また「紫式部集」を自撰した。
「源氏物語」は執筆当時から宮廷社会においてもてはやされ、その女主人公・紫の上に因んで、彼女は紫式部と呼ばれた。
没年については、長元年(1031年)とみなす説が有力である。
「河海抄」その他の古記録は「式部の墓は雲林院の塔頭の白亮院の南、すなはち北區紫野西御所田町に存した」と伝えているが、この所傳には信憑性が多い。
「源氏物語」は完成後、九世紀に渡って国民に親しまれ、また研究された。
今世紀に入ってからは式部の文名は廣く海外でも知られ、「源氏物語」は、続々と各国語に翻訳された。
一九六四年、ユネスコは彼女を「世界の偉人」の一人に選んだ。
なほ、式部の居宅は堤第と言ひ、平安京東部の中河に所在した。
すなはち蘆山寺のある上京區北之邊町のあたりである。
また、一人娘の賢子は、後冷泉天皇の乳母となり従三位に叙された。
十一世紀の優れた閨秀歌人の大弐三位とは賢子のことである。
平成元年(西紀一九八九年)春文学博士 角田文衛 撰と石碑には書いてありました。
一部繁体字・旧仮名遣いは入力の関係で現代の文字に。
道を間違えて偶然見つけました。
華やかなイメージとは裏腹に紫式部の晩年は幸せではなかった様に聞いた記憶があります。
どんな思いで眠っているのでしょうか。
写真をとるのに熱中し、手を合わすの忘れました。
合掌。
六道珍皇寺の井戸から冥土へ通っていた小野篁。
色々と不思議な言い伝えがある魅力的な人物ですが、何故紫式部のお墓が隣に並んでいるのかなぁ?お参りしましたが謎は晴れませんでした!不思議、不思議。
良い雰囲気の墓地です墓地と言っても怖さは無いですよ。
見過ごしてしまいそうな場所にあります。
入り口は小さいですが、奥には思っていた以上の空間がありました。
私の他にも老夫婦が1組お参りをしていました。
静かな場所。
パッと見る限りはこんな場所にお墓があるとは思えなかった。
基本的には人はいない感じなのでゆっくり見ることができる。
Legendary female poet of the world
名前 |
小野篁卿墓・紫式部墓所 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
4.2 |
紫式部の墓…。
こんな場所にあったんですね。
盛り土?のようになっていました。
こじんまりとしていますが、キレイに清掃されていました。