旗揚げを誓いあった場所頼朝が吐き捨てた渋柿の種から...
対面石(源頼朝・義経) / / .
源頼朝と義経が初対面した場所で、その時座ったとされる石が有ります。
八幡神社の中に有り、神社の駐車場(3台分)が使えますが、神社にも参拝をいたしましょう。
大河ドラマをみて関心があり、訪問。
想像力がないと、ただの石が2つ並んでる、で終わりそう。
石の横から少し離れたところでよいので、大河ドラマの動画を流すとか、QRコードで動画のリンクにとぶとか、NHKとなんらかしらタイアップしてお互い盛り上がってもよいのではないでしょうか。
もったいない気がしました。
義経がスマホがない時代どうやってこの地をつきとめ、会うことが出来たのか気になるところです。
勝手な推理でもよいので、掲示すると面白そう。
再会してから、どんな経緯で何年後に最後をとげることになったことなども説明があるとよい。
年表をたてるとか。
地図を掲示するとか。
何かあるといいな。
頼朝、義経の、旗揚げを誓いあった場所頼朝が吐き捨てた渋柿の種から育った柿の木は、樹齢1800年以上?
石橋山の戦いに敗れて、一度は自害の作法も学んだと伝わる源頼朝公が、逃れた安房から軍勢を率いで鎌倉入りをし、さらには富士川で平家追討軍を打ち払った、その翌日に木瀬川の陣に訪れた弟である源義経と互いに涙を流して対面を喜んだ場所と伝わっています。
たぶん日本一有名な兄弟が初めて会った場所です。
とっても地味で静かですが、それはそれで良いと感じます。
対面を記念した自ら植えたとも云われる「ねじれ柿」も見ることができます。
この地で二人が対面した時は、仲の良い兄弟だったのは確かなんだろうなぁと思います。
対面石については、本殿に資料まで用意されていました。
こっそり座ってしまってすいません。。。
治承4年(1180年)8月17日、伊豆韮山で源氏再興の挙兵をした源頼朝は、紆余曲折の後、10月に鎌倉入りを果たし関東・伊豆一円を平定しました。
10月17日、富士川の戦いで、平家の東征軍を打ち破り、黄瀬川宿(現・清水町八幡)に陣を敷いていた頼朝の下に一人の若者が駆け付け面会を求めてきました。
素性が明らかでない若者を、土肥實平・岡崎義美が怪しみ取り次ぎませんでしたが、聞き付けた頼朝は、『年の頃をおもうと、奥州の九郎(源義経)かもしれない。
直ぐに呼べ。
』と言ったと云います。
土肥實平が若者を招き入れると、やはり義経でした。
義経は、兄・頼朝の前に進み懐古の涙を流しました。
頼朝は、二人の先祖である【源義家】が【後三年の役】で苦戦していた時、義家の弟・源義光が、朝廷警固の職を辞して奥州に下り、兄弟力を合わせ敵を討ち倒したと云う故事に例え、『今日、この地に訪ね来たことは、先祖の例に匹敵するものだ』と言って来訪を大変喜んだと伝わっています。
その時、二人が腰を掛け話し合ったと伝わる【対面石】が八幡神社境内に残されています。
治承4年(1180年)10月、黄瀬川近くのこの地に陣を構えまていた源頼朝 のもとに、遥々奥州平泉から弟である源義経が駆けつけてきました。
その 対面時に、二人が腰を掛けたのが、この対面石であると伝わっています。
源頼朝と義経が涙の対面を果たした際に腰掛けたと言われる。
名前 |
対面石(源頼朝・義経) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.1 |
物語ではよく描かれる「対面石(源頼朝・義経)」の場面。
見せ場だよね。
********************************で、行ってみると・・・八幡神社(やはたじんじゃ)の奥、ひっそりと、樹木の中、薄暗いところにある。
・・・お勧めはしないな。
この神社、通称「対面石八幡神社(たいめんせきやはたじんじゃ)」とも呼ばれている。
神社庁でも、併記している。
「はちまんじんじゃ」ではない。
この辺の地名は、「やはた」だ。
********************************こんな類の「腰かけ石」など、あちこちにある。
私は、アマノジャクなので、うーん?と思ってしまうが、ま、「思いを馳せる」には、いいね。
異母兄弟とはいえ、期せずして生き残った兄弟の対面は感動的だ。