弁天様を写しました鐘つき堂もありました 階段を少し...
浅草寺には何度も来てますがこの時の鐘は未到でした。
小高い丘にあります。
近代前までは遠くを見通せる展望地だったのだろうと思いを馳せます。
弁天様を写しました鐘つき堂もありました 階段を少し登った 小高いところにあります狛犬も印象的です。
江戸中期元禄五年建之銘。
鋳物師 深川の太田 近江大掾 藤原 正次。
漢文あり。
撰文は,金龍山淺草寺 別當 權僧正の宣存。
『新選東京名所図会』に紹介される口伝によれば,この鐘には,黄金二百枚が混ぜられているのだという。
なんでも家光公が黄金を混ぜなければ,音の響きも悪かろうと,自ら黄金二百枚を煮えたぎる坩堝の中に投じ,それを鐘にさせたのだとか。
しかし,鐘に刻まれた漢文には,その様な出来事は刻まれていない。
おそらく,後年の創作であろう。
以下,その漢文を訳す。
原文(『新撰東京名所図会』「浅草公園の部」)】寛永丙子歳大猷院家光公詣當山觀音堂見伽藍破壞卽命改作凡二十餘所又於堂後林中創建東照宮後僅數歳民屋火起神宮佛閣悉煨燼公復命老臣某等營造如初自爾以還日往月來年超四十風雨所侵寝至敗毀今大樹幕下承先公之事起土木之功命山城守戸田忠昌使十郎左衞門尉建部昌考五郎左衞門尉三浦義成八郎右衞門尉國領重淸薫匠事嗚呼結搆之崇彩飾之美仰而可望俯而可欽功德之大豈可量哉其樓上所掛之鐘亦破裂因改鑄之備後守牧野成貞喜捨黄金二百兩爲常報十二時之資糧鐘既成作銘幷序刻之銘曰(漢詩八十字省略)元禄五年歳次壬申八月日武州豊島郡金龍山淺草寺 別當 權僧正宣存拝撰鑄師 武州深川 太田近江大掾 藤原正次書下】寛永丙子歳(カンエイヘイシサイ),大猷院家光公(タイユウインイエミツコウ)當山觀音堂を詣で,伽藍の破壞を見て即ち,凡二十餘所を改作し,また堂後林中(ドウゴリンチュウ)に東照宮を創建せよと命ず。
後僅數歳(ノチワズカスサイ),民屋火起(ミンオクカキ),神宮佛閣悉く煨燼(カイジン)となる。
公(コウ)復た老臣某等(ロウシンボウトウ)に命じ,如初に營造す。
自爾以還(ジジイカン),日往きて月來たるに,四十の風雨の侵す所を超え,寝(ミタマヤ)敗毀(ハイキ)に至る。
今の大樹幕下(タイジュバッカ)先公之事(センコウノコト)を承り,土木之功(ドボクノコウ)を起して,山城守(ヤマトノカミ)戸田忠昌に命じ,十郎左衞門尉(ジュウロウザエモンノショウ)建部昌考・五郎左衞門尉(ゴロウザエモンノジョウ)三浦義成・八郎右衞門尉(ハチロウエモンノジョウ)國領重淸をして匠事(ショウジ)を薫(クユラ)しむ。
ああ,結搆之崇(ケッコウノスウ)と彩飾之美(サイショクノビ),仰ぎて望むべき,俯きて欽むべし。
功德之大(クドクノダイ),豈に量るべきや。
その樓上の掛ける所の鐘もまた破裂し,因りて之を改鑄し,備後守(ビンゴノカミ)牧野成貞 黄金二百兩を喜捨し,常に報せる十二時之資糧と爲す。
鐘 既に成りて,銘幷びに序でを作り,これを刻して銘じて曰く,(以下,漢詩略)私訳】1636年,亡家光公が当山観音堂を参拝し,伽藍が壊れているのを見て,直ぐに,約二十数か所の修理とお堂裏手の林に東照宮を創建するように命じた。
そのわずか数年後,民家から出火し,神宮仏閣は,尽く灰燼に帰す(寛永十九年二月十九日に火災があった様々である。
)。
家光公は,再び重臣に命じて,創建当時の姿を取り戻させた。
それより以降,月日が経って,(観音堂または東照宮の)風雨の侵す所は四十(ヵ所)を超え,神殿は取り壊されるに至った。
現将軍(綱吉公)は,先公である家光の遺志を引き継ぎ,土木工事を企図して,戸田忠昌に命じ,建部昌孝・三浦義成・国領重清に事業を行わせた。
その設計の巧妙さと彩色の美しさは仰ぎ望み,俯いて慎むべきものであろう。
この功徳の大きさを図ることなどできようか,いやできない。
また,楼上に掛かる鐘も裂けていたので,これを改鑄したが,牧野成貞が金二百両を寄付し,十二時を常に知らせる(鐘の)糧とした。
鐘は完成し,銘文と序文を作り,これを刻んで,以下の様に詠う(漢詩略)。
松尾芭蕉の句「花の雲鐘は上野か浅草か」は有名です。
浅草時間は、この鐘の音で始まります。
大晦日に除夜の鐘が鳴らされる「時の鐘」、毎朝6時にもお坊さんが鐘を撞きます。
戦火に晒されても残ったこの鐘(金属だしね)。
大晦日の除夜の鐘では、百八会の会員によって点打されます。
浅草に所縁のある各界著名人や名物旦那様などの、喝采(野次?笑)が見物です。
御由緒はクドクド書かなくても、浅草寺のHPにあるので割愛。
滋賀県出身の鋳物師が作りました。
浅草寺の鐘は元禄5年(1692年)に将軍徳川綱吉の命により、太田近江大掾藤原正次(おおたおうみだいじょうふじわらのまさつぐ)が鋳造。
太田家は「釜六」の名で知られた滋賀県栗東市出身の鋳物師の一族。
松尾芭蕉の句碑がある。
名前 |
時の鐘 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.2 |
弁天堂の右手に鐘楼があり、そこに掛けられている鐘が「時の鐘」です。
浅草寺HPによれば『鐘は元禄5年(1692)に五代将軍徳川綱吉の命により改鋳され、江戸の市中に時を告げていた鐘のひとつ。
深川に居を構えていた松尾芭蕉が「花の雲 鐘は上野か 浅草か」という句を詠んでいる。
戦時中、多くの寺の鐘が供出を余儀なくされたなかで、弁天山の「時の鐘」は特に由緒がある鐘ということで残された。
現在も毎朝6時に役僧によって撞かれており、大晦日には新年を告げる「除夜の鐘」が鳴らされる。
昭和25年(1950)5月再建 入母屋造り(現在は、毎朝6時及び年末の除夜の鐘のみ点打)芭蕉の句「花の雲 鐘は上野か 浅草か」で有名な鐘である。
』とのことです。