大友宗麟 (1530-1587)の墓地が中田引地に...
大友宗麟公墓(市指定史跡) / / .
九州を代表する戦国大名、大友宗麟の墓地です。
当初はキリスト教形式の墓地に埋葬されてたそうですが秀吉が発布したバテレン追放令に際し嫡男の義統が仏式の墓に変更。
その義統も後に改易処分となった事もあり、寺も廃寺となり墓も荒廃していきました。
現在の墓は、寛政年間に旧家臣の末裔の臼杵城豊が改葬し、この時、墓も新調されました。
同じ敷地に洋式の墓もありますが、これは、昭和52年に「大友宗麟公顕彰会」なろものが発足され、その際にキリスト教形式の墓地が造られました。
九州を席巻した大大名としては少し物寂しい感がありますが、津久見の地を今も見守っているものと思います。
名前 |
大友宗麟公墓(市指定史跡) |
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ジャンル |
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電話番号 |
0972-82-9521 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.4 |
津久見市ホームページ 「津久見市の文化財 2」より所在地:津久見市津久見4190番地津久見市教育委員会管理戦国時代、九州に一大勢力を築き上げ、その名を馳せたキリシタン大名、大友宗麟 (1530-1587)の墓地が中田引地にあります。
当初は、キリスト教式の墓に葬られたといいますが、秀吉の禁教令により、仏式に改められました。
現在の墓は、寛政年間 (1789-1801)、旧家臣の末裔臼杵城豊により改葬され、長泉寺が供養にあたったといいます。
昭和52年 (1977年)には、大友宗麟公顕彰会によってキリスト教式の墓 (モニュメント)が横に並べられ、今日見るような墓地に生まれ変わりました。
大友宗麟といえば、広く世界に目を向け、進んで西洋の文化を取り入れた先駆者として高く評価されています。
宗麟は島津軍との戦いに疲れ、当時流行していた熱病に冒され、天正15年 (1587年)5月23日に津久見を永眠の地として没したといわれています。
平成5年 (1993年)1月11日 市の史跡に指定。