小川の上に橋が掛かっていてそこを渡って神社に入りま...
出雲乃伊波比神社(板井) / / .
小川の上に橋が掛かっていてそこを渡って神社に入ります立派な木もたくさん気持ちのいい神社です。
趣のある社の神社です。
この神社はもともと鹿島神社だそうで、明治になって今の名前になったようです。
静かなところにある神社です。
名前 |
出雲乃伊波比神社(板井) |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.5 |
板井出雲乃伊波比神社(いたいいずものいわいじんじゃ)御祭神 武甕槌命境内社 八坂神社 氷川神社 小御嶽・富士浅間神社 三峰神社 龍田神社 合殿(天満神社・神明神社・山神社・稲荷神社・富士浅間神社)由緒板井村 氷川社 村の鎮守なり【延喜式】神名帳に載る出雲乃伊波比神社なりと云 社地老杉の繁茂せるさま神古たれど たしかなる證據もなく 口碑の傳のみなり 長命寺の持下二社同じ鹿島社 是も村の鎮守なり天満宮(「新編武蔵風土記稿」参照)当神社は、延喜式神名帳に登載されている男衾郡三座のうちの一座であると伝え、鎮座地は荒川水系に属する和田川上流にあります。
地内には、奈良・平安期の住居跡が確認されているとともに、隣村の大字塩では古墳群が存在しています。
古代、当神社を奉斎した集団は、社名から出雲系氏族であった可能性が考えられます。
これは当神社と同じ社名の、入間郡の式内社「出雲伊波比神社」や、出雲という名称こそ冠していないが、出雲系氏族の物部氏が奉斎したと思われる物部天神社と中氷川神社の存在からも窺うことが出来ます。
恐らく、入間郡一帯に勢力があった出雲系氏族の一派が当地に移住し、当社を創建したと考えられます。
また、祀る神は、武蔵国内の荏原郡「磐井神社」・多磨郡「青渭神社」・横見郡「伊波比神社」などの式内社同様、水源に坐す神であったと思われます。
別当は、京都の聖護院末の本山派修験長命寺が明治維新まで務めました。
開山は、元阿円長法印で、久安三年(1147)に寂しています。
同寺の法印は、男衾・比企・幡羅・榛沢郡のうち四十八か村の修験を統轄する正年行事職で、幕末までに合わせて四十三世にわたる法印が相続しました。
中でも二十七世良恭法印は、文明年間(1469~1487)当社に鹿島明神を勧請して、社名を出雲伊波比神社から鹿島社と改めました。
以後、これは明治二十八年(1895)の旧社名復古まで変更されませんでした。
(「埼玉の神社」参照)本神社は、もとは鹿島神社といわれていましたが、明治二十八年(1895)に出雲乃伊波比神社と改称されました。
御祭神は武甕槌命で、境内には、氷川神社、八坂神社、龍田神社、稲荷神社、天満神社、神明神社、山神社、富士浅間神社などが合祀されています。
社前の和田川に架けられた太鼓橋は、昔から八雲橋といわれ、この橋をくぐって子供のはしか平癒を祈願するものが多く、昭和の初め頃まで「はしか参り」が列をなしたものです。
境内に祀られている神々の祭日のうち、特に七月の八坂祭りは、昔から「板井の天王様」として近在に知られ、明治四年(1871)からは、太鼓の「ヒバリバヤシ」を載せた屋台が「みこし」と一緒に板井区内をにぎやかに一巡するようになりました。
(「境内案内板」参照)江南地域「板井」地名の由来平安時代の延喜式神名帳に、江南地域が属していた男衾郡内の官社として 出雲乃伊波比神社が記載されています。
現在、板井地内にある伊波比神社は、江戸時代に氷川神社であったものが、明治時代に由緒を基に改めたものですが、神名帳に記載されている伊波比神社に比定される可能性は、遺跡や伝承などから高いと考えられています。
「板井」の地名は、伊波比・岩比の「イワイ」のある地域と、地元や周辺地域の認識があったと考えられ、「イワイ」から「イタイ」への地名が定着したと推測されます。
(熊谷市役所公式HP「江南地域について」参照)