かっこいいドラゴンを帯びる剣があった。
第三番札所 亀光山 釈迦院 金泉寺 / / / .
四国霊場3番札所【金泉寺:こんせんじ】徳島県板野郡板野町ここには、黄金の井戸・弁慶の力石などがありますが…どうやら見落としたようですなんとか3枚目、倶利伽羅(くりから)竜王像だけはε-(´∀`*)ホッ倶利伽羅剣の高さは1200万km、龍の吐く息の音は2億万の雷に匹敵するそうです。
四國八十八霊場の第三番札所のお寺。
金泉寺(きんせんじ)と思っていましたが“こんせんじ”と呼ぶそうです。
名前が物語る通り金運上昇のご利益があるそうで観音堂の右奥にあるのが黄金の井戸と地蔵尊。
このお寺の名前である金泉寺の由来ともなった井戸で現在でもこんこんと湧いてるそうなんでふ。
この井戸を覗き込み、影がはっきり映れば長寿、ぼやけていると短命という言い伝えがあり覗いてみたらハッキリ映ったので心静かにお祈りしました。
納経帳をお願いしたらご対応いただいた女性がいろいろお話をしてくださり、素晴らしい応対をしていただきすごく気持ちが良かったです。
【03番】 徳島県板野郡板野町大寺亀山下66【亀光山 釈迦院】【きこうざん しゃかいん こんせんじ】【高野山真言宗】【釈迦如来】📌仁王門 🎥 金剛力士像 約3m 塑像 FRP?🔖四国霊場4番 大日寺まで約6km
たしか細い道を通って少し奥に入っていくと見えてくるお寺です。
広くはないですが、写真を撮るのに好きなポイントが何カ所かあるのでここは好きです。
紅葉したら、さらに綺麗そうです。
朱塗りの仁王門を潜れば 見渡しの境内。
ちょっと 奥まった所に、黄金地蔵尊 黄金の井戸が有ります。
覗き込んで、姿がハッキリと映ると長寿 ボヤけてると、短命とか・・・納経所の手前には弁慶の力石も有ります。
源義経が源平の合戦に向かう時に立ち寄って祈願したお寺さまと言われています。
弁慶が力自慢に使ったと言われる力石が、納経所の前の庭に今も置かれています。
法事の為初めて本堂に案内してもらいましたがやっぱ素晴らしいです。
でも変な人は出てくるみたいです。
お寺さんとは関係ないですが注意も必要です。
2020年に逆打ち遍路を自転車で巡礼しました。
四国霊場3番札所になります。
細道を抜けると立派な門が目につきます。
納経所の方もとても親切でした。
10年以上前になりますが義母のお墓参りの為に神奈川県から車で来ました。
とても掃除が行き届いていて感謝です。
今コロナのせいとまとまった休みが取れずなかなか行けませんがまた必ず行きますね。
1日目のさんばん2番札所極楽寺から歩き遍路でゆっくりと4~50分弱、バス等で10分程で到着できます。
水不足に悩む住民のために、お大師さまが井戸を掘って霊水を得た黄金井のお話しと、黄金地蔵尊と一緒に祀られている井戸に自分の姿が写らないと3年以内に死んでしまうという怖い伝説や、源平合戦の必勝祈願に訪れたおりに、弁慶が持ち上げて自軍を鼓舞したと伝わる弁慶の力石、本堂横の護摩堂の格天井のひとつひとつに花鳥が描かれていて、見どころのひとつです。
1日に6カ寺にするツアーで訪れての3カ寺目になって、参拝、お経の唱え方も少しは慣れたようで、お弁当も移動中のバスの中で食べて一段落。
境内や本堂、大師堂といった建造物等以外にも関心が届くようになって、少し物見遊山の気分も頭をもたげてきて、今日、初対面の同行のバスの近場に座られているお姉さん方とも、少し和んできて、大阪から持って来ていたおせんべいやキャンディをお接待? よろしくおすそ分けでプレゼント。
それ以降、左半身の不自由な私に大阪へ帰り着くまで何かとお世話してもらい楽しい旅になりました。
お菓子の力は、偉大です!。
朝、8時頃の集合から、夕方7~8時頃の解散まで、1台のバスの中をいっしょに過ごすのですから、楽しいにこした事はありませんよね?、“まさに人の出逢いは、一期一会。
”とても貴重な体験、経験をお大師さまから頂いたんじゃないかと、時を過ごした今、思っています。
井戸の水面に、自分の姿が写ったかは今も…(笑)。
参拝を済ませて次寺への移動のバスに乗り込みました。
30年前、すぐ近くに職場があり1年間勤務してたけど、一度も行かなかったなぁ。
若いときは、お寺になんか全く興味無かったからなぁ(^_^;)
金泉寺も寺伝があまりはっきりしていません。
また、縁起もはっきりしません。
本尊は釈迦如来です。
江戸時代に入ると、放浪僧の間に釈迦や弘法大師の昔に返ろうという運動が発生し、そのモニュメントとして「仏足石」や寝釈迦〔釈迦涅槃像〕が作られるようになります。
寝釈迦は放浪者の偶像でしたから、その系統の大たちが住職をしたところにはみな釈迦涅槃像があります。
そういうことが釈迦如来を本尊とする金泉寺にも起っていたわけです。
金泉寺は釈迦信仰からしだいに仏教の学問をする寺に変わります。
そうして近世になりますと経処坊という名前で学問所として栄えました。
阿波と讃岐との境の讃岐側(現在は徳島県)の66番の雲辺寺が讃岐のほうの学問所であったのに対して、金泉寺は阿波の坊さんだもの学問所です。
そういうことがおこってくるのも、釈迦の古に帰って学問をしなければいけないという思想があったからです。
金泉寺の名前のもとになった井戸は、地蔵堂になっています。
ほかに閻魔堂、大師堂、奥の院があります。
奥の院は大した奥の院ではありませんので、特別に取り上げるほどのことはありません。
珍しいのは太子堂で善の綱が引かれていることです。
もとは本尊の開帳のときに善の綱を引きましたが、ここではいつも善の綱を引いているそうです。
そういうことで金泉寺はたいへん珍しいことに、善の綱を引いているお寺です。
四国八十八ケ所霊場 第三番札所少し山の方に上がり狭い道の住宅地に入ってきたらあります。
なぜか赤い門が印象に残るお寺さんでした。
金泉寺の歴史・由来聖武天皇(在位724〜49)の勅願により行基菩薩が寺塔を建立し、「金光明寺」と命名されたと伝えられる。
そのころの本尊は高さ約91センチの釈迦如来像で、脇侍に阿弥陀如来、薬師如来の三尊像を安置して開基したという。
弘仁年間(810〜24)になって弘法大師が四国を巡教された際、村の人たちが日照りに苦しんでいるのを見て、この地に井戸を掘られた。
この井戸から湧き出た水は霊水で、「長寿をもたらす黄金の井戸」とされ、寺名の「金光明寺」を改め、「金泉寺」とした。
その後、亀山天皇(在位1259〜74)が法皇になられ、弘法大師を篤く信仰されて各地の霊跡を巡拝、金泉寺にもしばらく滞在された。
黄金地蔵尊その間に、京都の三十三間堂(蓮華王院)に倣ならった堂舎を建立し、1,000の千手観音像を祀られ、背後の山を「亀山」と命名し、山号も「亀光山」と改めた。
この堂舎には経蔵がおかれ、学僧たちで賑わったという。
以来、皇室との縁が深く、長慶天皇(在位1368〜83)の御陵も本堂裏にある。
また、源平合戦(元暦2年=1185)のおり、源義経が屋島に向かう途中に金泉寺に立ち寄り、戦勝開運の祈願をしたと『源平盛衰記』に伝えられている。
本堂の左手にある慈母観音子安大師は、義経の祈願所ではあるが、境内西隣にある「弁慶石」もその一つで、義経が弁慶の力試しに持ち上げさせたと伝えられている。
すこやかに育てと願う親心の観音菩薩。
いまも人生の開運を願う参詣者が多く訪れる。
(HP抜粋)
2014/09/08に参拝。
第三番札所 亀光山 金泉寺(きこうざん こんせんじ)の本尊は釈迦如来(伝弘法大師作).開基は行基菩薩。
宗派は真言宗高野派、天平の頃(729〜49).聖武天皇の勅命を奉じた行基菩薩が創建し、金剛明寺と称された。
後年弘法大師によって補修整備され、金泉寺と改名された。
境内の「黄金井戸」は長寿に霊験ありといわれる。
名前 |
第三番札所 亀光山 釈迦院 金泉寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
088-672-1087 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.1 |
四国八十八ケ所第3番札所。
弁慶の力石や閻魔大王の像等、色々と見所があるお寺です。