津波避難場所にも、なってます。
阿波九城であり、脇城、牛岐城同様に江戸初期の瓦が散見されます。
薮の中に残る石垣といわれる遺構ですが、城の石垣ではないもの(日本軍の軍事施設など)も多くありますが、確かに城の石垣もあります。
藪こぎと何回かは滑りこける程度はは覚悟して訪問下さい。
海陽町指定史跡海部城跡海部川河口の山に築かれており、山頂に主郭があります。
海部小学校の体育館裏手に海部城駐車場があり北側から登れます。
城跡は小さいですが、石積や土塁、堀切などの遺構があって見どころとなっています。
北側の登城道は樹々が伐採されており海の見えて大変景色が素晴らしいです。
【歴史】元亀2年(1571年)頃に海部左近将監友光によって築城されました。
海部氏は三好氏に従い阿波国の最前線となっていましたが、天正3年(1575年)長宗我部元親が阿波国へ侵攻し海部城は落城。
元親は弟の香宗我部親泰を海部城に入れました。
天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国征伐で蜂須賀家政が阿波国へ入封すると、大多和長右衛門正之が城代となり改修されますが寛永15年(1638年)廃城となり東麓に御陣屋が築かれました。
【アクセス】城跡北西の海部小学校の体育館そばに登城口があり案内板と石碑があります。
駐車場有り。
#お城 #城 #城跡 #山城 #城巡り#徳島県 #海陽町 #海部城 #海部城跡。
海部駅から歩いて20分程で登城口に到着。
海側から登りました。
石垣がいい感じで残ってました。
もう少し案内板が欲しいです😅
石垣は残ってましたが、城址碑は綺麗に取り除かれてました。
津波避難場所にも、なってます。
小高い山中にあり津波非難場所でもあります。
当時の石積みや、城跡と思われる独特の地形も現存しており、歴史を感じさせられます。
この場所へ到達する為には未舗装の軽い山道を歩く事になりますので、スニーカー等歩き易い靴がお薦めです。
尚、主な登山口は2箇所あり、海側(鞆浦魚協)からは津波非難用の階段が設けられていますので、容易に上がる事が出来ます。
すごいマイナー兄弟藤原光房の子の海部信方と吉田経房が出てるマニアック🌟🌟🌟🌟海部信方の(長男は、祖父の藤原光房の姓である本姓の藤原姓に戻したとも)の400年後子孫に戦国時代の三好家重臣の後藤田家などが居る(海部信方の次男の子孫が海部姓を継いだ)阿波家も信方の子孫後藤田家(藤原秀郷の末裔)の由来については後藤田一統の「後藤田家由来」によれば、先祖の後藤田牛之丞は長曽我部元親と戦って戦死した桑村城主🌟桑村隼人正の実弟であった。
妻の父で名西郡中島城主🌟稲井帯刀を援けて奮戦中、馬の足が洞穴に踏込み落馬して戦死した。
時に元亀3年(1572年)9月9日のことであった。
この地の人々が牛之丞を王子神社として祭り後藤田正純は、牛之丞の子孫🌟🌟🌟🌟吉田経房のおよそ700年後子孫には、吉田茂が居る(経房の死後に娘の子孫が現在の高知県宿毛に移住)娘は、元👈北九州長野城❗城主の長野重清の側室に成り、長野房清や吉田光清を産む長野対馬守重清(ながの・つしまのかみ・しげきよ)(平清盛の弟で平家盛の家系)で北九州で捕らえられて四国の土佐に流された🌟吉田茂の身内大久保利通(義祖父)安倍晋三の祖先でもある三島通庸(義祖父)竹内綱(父)牧野伸顕(岳父)竹内明太郎(兄)麻生太賀吉(娘婿)麻生太郎(孫)どちらも繁栄してる城入国当時の城番🌟🌟🌟一宮城城主🌟益田一正尾張国蜂須賀村で生まれる。
父は蜂須賀正勝に仕えた益田持正。
蜂須賀家政が阿波国へ入った際、父の持正は一宮城主となり、後に一正が一宮城主を継いだ。
ただし、『徳島県史』などでは一正が一宮城の最初の城主だとしており、その後、海部城主であった中村重勝が大西城へ移ったため、一正が海部城主となる。
一宮城は息子の益田長行が城主となった。
また、一正が海部城主を退いた後も、長行が海部城主を引き継いでいる。
🌟🌟🌟撫養城城主🌟益田正忠尾張国蜂須賀村で生まれる。
父は蜂須賀正勝に仕えた益田持正。
(天草四郎時貞こと豊臣秀綱の母方の家系)蜂須賀家政が阿波国へ入った際、父の持正は一宮城主となり、正忠は撫養城主となる。
1597年(慶長2年)の分限帳には、撫養、堂浦、板東、堀江、川内などに計3,593石を知行とある。
その後、息子である益田正利(5,000石知行)が撫養城主を引き継いだ。
🌟🌟🌟西条城城主🌟森監物(讃岐の森権平の身内)🌟🌟🌟川島城🌟林能勝(三好婦楽の一族👈大平国祐の父親の祖父つまり曾祖父でもある)能勝と国祐は、親戚になる🌟🌟🌟が大西城城主🌟牛田一長(現在の讃岐善通寺に移住)現千葉県北部である下総国牛田村が起源(ルーツ)である清和天皇の子孫で源姓をたまわった氏(清和源氏)源満季の子孫徳島藩、現山梨県である甲斐にもみられる。
の牛田姓が居る]🌟🌟🌟海部城城主🌟中村重友(海部信方の息女の子孫)🌟🌟🌟牛岐城城主🌟賀島政慶旧男爵🌟賀島家は、元徳島藩家老の家系。
ほか群馬県や香川県に見られる。
「島」は一定の小区画を表す。
讃岐うどんのかじま屋もその子孫が香川県に移住したもの🌟🌟🌟脇城城主🌟稲田植元(現在の讃岐高瀬に移住)🌟🌟🌟仁宇城城主🌟山田宗重(土佐山田家一族)平城天皇の山田皇子の子孫摂津国八部郡山田庄発祥(山田皇子の子孫が移住)山田皇子の妻は、物部家の女性家紋は巴、藤、剣かたばみ、五七桐、茶の実、丸に八の字などがある。
語源は、山の中の田んぼ。
🌟🌟🌟吉田経房の子孫の一部は、土佐の宿毛に移住して子孫の吉田茂の祖父が政治地盤とした幕末には、吉田東洋や🌟東洋の甥おい🌟後藤象二郎などが出る🌟🌟🌟🌟海部家としては、海部内閣総理大臣が出る尾張徳川家の招きで海部家の分家が尾張海部家を創成した海部総理衆議院議員(16期)、自由民主党国会対策委員長(第21代)、文部大臣(第98・107代)、自由民主党総裁(第14代)、内閣総理大臣(第76・77代)、大蔵大臣(第95代)、新進党党首(初代)などを歴任した。
🌟🌟🌟🌟海部総理の身内国際天文学連合 (IAU) 会長の海部宣男、2008年にノーベル物理学賞を受賞した小林誠、トヨタ自動車元副社長の小野茂勝の従弟である池坊家(小野妹子の子孫)とも海部家は、深い繋がりがある。
平安時代源氏の家臣の海部信方の居城跡平家の家臣の吉田経房は、双子の弟と伝わる吉田経房の死後は、信方が経房の子供を育てた経房の子供達は、吉田姓を名乗って信方が烏帽子親や後見人と成った。
別名鞆城という。
中世から江戸時代初期の平山城で築城年代は不明。
江戸時代になって蜂須賀氏が阿波九城の一つとして土佐国への防備の城として鉄砲衆80人を配した。
元和の一国一城令で城が廃された後も、郡代役所の名目で小規模ながらも近世城郭の命脈を保った。
軽く探検できます。
石垣が見つかると、それが例え昭和のものであったとしても嬉しくなります!
長曽我部を迎えた城は現在その面影をほとんど残していませんでした。
月極め駐車場からの登山。
名前 |
海部城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.8 |
海部川側(判形側)に駐車場があり、そこから近道とあったので登ってみた。
行ったときは木々が刈り込まれて川から、海まで見晴らしが良かった。
木の枝を利用した手作り階段。
丈夫そうなロープもはられている。
倒木?が門のようになっていた。