乾燥した風景と丸い窓は見逃せません。
芬陀院(雪舟寺)庭園 / / .
昔20年程前に訪れました。
キレイな庭と白い年寄りの猫が静かに迎えてくれました。
最近は…庭は同じなのに…猫が居ないだけでなく自分がジジイになったのね。
名前 |
芬陀院(雪舟寺)庭園 |
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ジャンル |
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電話番号 |
075-541-1761 |
住所 |
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評価 |
4.4 |
芬陀院の庭園東福寺の塔頭・芬陀院の方丈南庭は一條兼良(恵観)の依頼で雪舟が作庭したと伝えられています。
この庭は禅院式枯山水庭園で、京都で最も古く、近畿地方で唯一の雪舟が作庭したものです。
寛正年間(1460-1466)、または応仁年間(1467-1468)に造られたといわれ、かつては水を用いない池庭形式だったとされ、後に鶴島・亀島のある蓬莱式になったとされています。
庭に鶴島・亀島を絵画的に配置し、背後にツツジの苅込も取り入れています。
二度の火災や文化年間(1804-1818)の一條家の墓地拡張に伴い、鶴島が壊されました。
日本庭園史研究家であり作庭家でもある重森三玲が昭和12年(1939年)に南庭の復元を行いました。
重森は『日本庭園史図鑑』にこの庭を収録するために芬陀院を実測し、雪舟が山口に作った常栄寺庭園の実測資料に基づいて復元を行いました。
また、一條家墓地の拡張のために失われていた鶴島を、一石も補充することなく甦らせました。
この際に亀島を修復し、鶴島を復元しました。
真っ直ぐに砂紋が描かれた白砂と折鶴を表す鶴島、二重の基壇により亀の姿を表現した大きな亀島が背後の竹林と相まって、まるで一編の水墨画のようです。
なお、二重基壇の亀島の中央に立つ中心石は近くに倒れていたものを重森が蓬莱山式石組に復元したものです。
左に見える鶴島は常栄寺と同じように羽を折りたたんでいる姿に組まれています。
現在の南庭は、白砂と苔、植栽の簡素な庭で、苔地の中に鶴島と亀島の立体的な石組を象っています。
西(右手)の亀島は、二重基壇で中心石が立てられています。
左手には亀頭石が据えられています。
東(左手)の鶴島は折鶴を表しています。
鶴島は、山口市の常栄寺、亀島は益田市の万福寺など雪舟が作庭した庭にみられる共通の手法です。
南庭の西には、重森三玲により、1879年に復元された手水鉢が据えられています。
雪舟の逸話一條兼良が雪舟に亀の絵を描くように求めました。
雪舟は方丈南庭に石組で亀を作りました。
亀島が組まれたその夜、庭先で物音がするので、和尚が庭を覗くと、亀石が手足を動かし、庭を這っていたといいます。
兼良は雪舟の鼠絵の逸話を思い出し喜びました。
だが、不安を感じた和尚は、雪舟に相談しました。
雪舟は一笑し、亀の甲の部分に石を突き立てて動きを止めました。
これが今も残る二重基壇の中心石、立石になったといいます。
その後、明に留学した雪舟に因み、亀石の石組は「渡明の亀」と呼ばれるようになったといいます。
兼良は、雪舟の技量を称え、一寺を建立しようとしました。
しかし、雪舟は修行を続けたいとしてこれを断ったといいます。
また、この時に東庭に鶴島・亀島を新たに作庭しました。
東庭は仙人が棲む不老不死の地とされる蓬莱の庭の連山を表す鶴島・亀島を配した苔の庭です。
東庭は芬陀院に散在していた石のみで作られました。
一見すると小さな石が無造作に置かれているようですが、注意深く見ると、直線状の石組と楕円状石組が見えます。
重森は著書の中で、この庭は自作の鶴亀石組であると記しています。
奥の直線状に見える部分の左側が鶴島であり、点前の楕円状の石組は亀島です。
亀島は中央に向かって亀頭石があり、右奥には亀尾石があります。
茶室図南亭の西側の露地には一條恵観(昭良)が愛好した勾玉の手水鉢と屑屋型石灯籠が置かれています。
書院の北には「茶関白」といわれ茶道を愛好した一條昭良(恵観)好みの茶室「恵観堂」があります。
一條昭良は、東福寺参拝の際には、「図南亭」で茶を楽しんだようです。
没後、彼の像が安置されていました。
江戸時代、1755年、本堂と共に焼失し、1969年に復元されました。