鞆の浦に大伴旅人の歌碑があるのです!
鞆の浦の「むろの木」を妻と眺め、航海の無事と大伴氏の繁栄を祈願。
が赴任してまもなく妻(大伴郎女「神亀4年〘727年〙」に亡くす。
天平2年(730年)正月、「梅花宴」を開き同12月には大納言を兼任することとなり海路、都へ向かい、その途中鞆の浦で3首の歌を詠っています。
①我妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人そなき(対潮楼)【「むろの木」は今も変わらず鞆の浦にあるのに妻はこの世にいない】②鞆の浦の磯のむろの木見むごとに相見し妹は忘れえめやし(対潮楼の庭)平成12月建立③磯の上に根這ふ、むろの木見し人をいづらと問はばかたり告げむか(医王寺境内)平成21年建立新元号「令和」の由来天平(730年)大伴旅人は太宰府の自宅で高官を招いて梅花の宴「うたげ」で詠まれた「梅花の歌三十ニ首」の序文の一首から〘初春の令月にして気淑く風和ぎ、梅は鏡前の子なを披き、蘭は珮後の香を薫らす〙から引用された「令和」
◎鞆を詠んだ万葉集の名句だが・・・⚫︎石碑は全て万葉集原文の漢字で表記。
⚫︎しかも達筆すぎて凡人には読めない。
⚫︎もっと観光客フレンドリーな石碑にしてほしい。
◎大伴旅人の作⚫︎原文「吾妹子之 見師鞆浦之 天木香樹者常世有跡 見之人曽奈吉」⚫︎かな表記「吾妹子(わぎもこ)が見し鞆の浦のむろの木は常世(とこよ)にあれど見し人ぞなき」⚫︎現代語訳「我が妻が見た鞆の浦のむろの木は永遠にあるけれど一緒に見た妻はもういなのです」【吾妹子(わぎもこ)】とは?男性が妻や恋人を、また一般に、女性を親しみの気持ちを込めて呼ぶ語。
◎昔からかなり有名ではある。
⚫︎秀吉の妻「ねね」の兄貴が鞆に滞在したとき万葉集で有名な「むろの木」を探しに散策したと旅日記に記されている。
◎むろの木は・・常世にあるはずの「むろの木」が1300年後の現代まで現存してれば星5です。
韓国語の案内文があってよかった音。
(原文)한국어로 된 안내문이 있어서 좋았음.
むろの木歌碑万葉秀歌といわれるこの歌は、天平2年(730年)大伴旅人が太宰府の役人の任期を終え、都へ帰る途中、鞆の浦へ立ち寄った時の歌で、亡き妻をしのぶ気持ちを歌に乗せている。
「吾妹子が見し鞆の浦のむろの木はとこ世にあれど見し人ぞなき」
名前 |
むろの木歌碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.5 |
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