実際の「黒門跡」でなくイメージされた壁泉である。
重厚な門でかっこよかったです!
上野公園全体が 寛永寺の境内だったとは、どれだけ広いのでしょうか。
そしてどれだけ大きな力を寛永寺は持っていたのか‥‥幕末の内戦で この付近で 激しい銃撃戦が行われたそうです。
かつて寛永寺の黒門があった所です。
この辺りは、上野戦争で戦禍に巻き込まれるまでは寛永寺の境内でした。
現在は黒門の名残はありません。
相当は寛永寺の敷地が広かったものと思います。
かつては上野公園のほぼ全域が寛永寺の境内だったそうです。
寛永寺の正面入り口から少し入ったところに黒門があったそうです。
上野戦争でからくも焼け残った黒門は、彰義隊の墓所がある円通寺に移築され、現在此処に建つのは黒門をイメージした壁泉です。
この場所にある黒門跡は、実際の「黒門跡」でなくイメージされた壁泉である。
説明板には『 この壁泉は、かつてこの地にあった「黒門」 の姿を表現しています。
「黒門」は、寛永寺の総門です。
かつては現在の上野公園のほぼ全域が寛永寺の境内でした。
公園入口付近には「御橋」または「三橋」と呼ばれる橋があって寺の正面入口となっており、その先に「黒門」がありました。
幕末の上野戦争で、最も激しい戦闘が行われたのは、黒門付近です。
戦いは主として銃撃戦でした。
そのため、 黒門にも多くの銃弾が当たり、門にはその痕が無数に残りました。
焼け残った黒門は明治40年(1907年)、東京都荒川区の円通寺に移築されました。
円通寺には彰義隊の墓所があり、 黒門とともに幕末の歴史を今に伝えています。
』と書かれています。
かつてここにあった寺院の正面玄関であった大きな黒い門を彷彿とさせる噴水の形をした記念碑...(原文)Um monumento em forma de fonte que lembra o grande portão negro que era a entrada principal do templo que já existiu aqui...
①実際の黒門は円通寺に移設され保存されている。
②説明板より→この壁泉は、かつてこの地にあった「黒門」 の姿を表現しています。
「黒門」は、寛永寺の総門です。
かつては現在の上野公園のほぼ全域が寛永寺の境内でした。
公園入口付近には「御橋」または「三橋」と呼ばれる橋があって寺の正面入口となっており、その先に「黒門」がありました。
幕末の上野戦争で、最も激しい戦闘が行われたのは、黒門付近です。
戦いは主として銃撃戦でした。
そのため、 黒門にも多くの銃弾が当たり、門にはその痕が無数に残りました。
焼け残った黒門は明治40年(1907年)、東京都荒川区の円通寺に移築されました。
円通寺には彰義隊の墓所があり、 黒門とともに幕末の歴史を今に伝えています。
上野戦争の黒門があった所だそうで、狭い道幅で斬り合い、撃ち合いがあったそうです。
最終的には、加賀藩の敷地からの大砲の砲撃で片がついたそうです。
寛永寺黒門があったとされる場所に黒門を模したモニュメントができていました。
寛永寺や彰義隊由来の記念碑ができるのは嬉しいものです。
幕末、鳥羽伏見の戦いの後。
幕府側(勝海舟)と新政府側(西郷隆盛)の会談を経て、江戸城無血開場がおこなれた。
それに異をとなえる有志が集まり、新政府に対して、(大義をあきらかにする)という意味を込めて(彰義隊)を結成した。
当初は、江戸庶民の応援を受けていたが、殺戮等の反政府運動に走りすぎ、やがて江戸中が無政府状態に陥った。
この状況に危惧した京都の新政府は、江戸を預かる薩摩の西郷隆盛に対して、新政府の最後の切札として、長州の大村益次郎を江戸に赴任させることにした。
大村の緻密にたてられた計算の基に彰義隊との戦が始まった。
特に、一番激しい戦いが予測された黒門に対して、西郷隆盛を筆頭にした薩摩軍をあてた。
戦は大村が予想した通りに進み、最後に佐賀藩のアームストロング砲の効力により、戦は一日で終った。
この場所は、その戦の黒門があったことを示す為のもの。
その後、彰義隊の戦士死者は円通寺住職等により荼毘にふされた。
彼らの墓は円通寺に有り、その縁で黒門も移された。
今も当時の黒門はあり、銃口の跡も鮮明に残っている。
そして、上野の有名な西郷隆盛象の後ろに、彰義隊の碑が佇んでいる。
昔存在していた門をモチーフに作成したモニュメントがあります。
名前 |
黒門跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.9 |
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大きな壁のモニュメントがありました。
幕末上野戦争の舞台です。