御殿内にあった御倉にお稲荷さん。
本町中央公園のとなりに鎮座するお稲荷様。
改装されたばかりなのか、朱の色がかなり鮮やかで神々しかったです。
公園脇にある赤色が綺麗な街中にある稲荷神社さんです。
江戸幕府将軍がこの界隈に来た際の御殿とかが蔵になった「色々あっての神社の模様。
2021.02.28真っ赤な鳥居がかわいいお稲荷さん。
飢饉に備え食料を蓄えていた御蔵があったのが由来のようです。
境内掃除も行き届いており、隣の公園で船橋駅から10分以内の場所ですが、静かで喧騒から離れたい方にお勧めです。
船橋駅から徒歩7,8分位、御祭神は宇賀魂神(ウカノミタマノカミ)。
境内には『御蔵稲荷の由来と謝恩の碑』が設置され、内容は次のように記されています。
この稲荷神社は御蔵稲荷と呼ばれ、祭神は宇賀魂神である。
この神は元来作物、食物の神であり、土地の守護神でもある。
神社周辺は歴史的由緒が深く、様々な史話を伝える。
江戸時代の慶長末年、現在地周辺に初代徳川家康が船橋御殿を建て、二代秀忠、三代家光が度々宿泊休憩をした。
四代家綱により廃され、跡地は富氏に与えられた。
三代家光の正保年間に、その一角に九日市村の飢饉に備え穀物を蓄えておく御蔵が建てられ、当時、郷御蔵と呼んだ。
御蔵のお蔭で当地では延宝、享保、天明の飢饉にも餓死した者はいなかった。
寛政三年御蔵は出水の為流失、御蔵への感謝をこめ地元民が浄財を募り稲荷祠の社殿を大きく建直し四季折々の祭を行って来た。
慶応四年船橋宿一帯は戊辰戦争の兵火のため大半が焼失させられた。
その復旧工事中の翌明治二年土取り中御蔵稲荷東北、郷御蔵跡地あたりから、渡来銭の詰まった大瓶三口が出土した。
瓶は高さ四尺(1.2m )中国銭貨の洪武通宝、永楽通宝等二百五十貫余(約940kg)も入っていた。
地元では馬六頭で葛飾県庁に届けたが、一部恩恵に浴した者もあったという。
その後明治二十一年に経緯を刻んだ「銭瓶遺跡之碑」を建立したが、昭和中期頃失われた。
昭和初期文人太宰治氏は鄙びた御蔵稲荷を好み、その作品にも書き残し、いくつかの口絵写真でも、御蔵稲荷を背景に使っている。
昭和三十年代に急激な都市化により、船橋地名の起こりであり、山、里、町、浜の文物交流の動線であった海老川が毎年の様に溢れ、氾濫がくりかえされた。
昭和三十六年浸水屋敷数二三八戸であったものが昭和六十一年には二、四二六戸と増大、当町会の三分の二が泥水に浸り、物心両面での困苦は筆舌に盡しがたいものがあった。
その都度町会集会所を兼ねていた御蔵稲荷社殿が、避難所、食事の炊き出し所として、被害町会民のため役立った。
地元民相集い、災害対策協議会を結成、市に要望、大橋和夫市長の英断と、国、県関係機関の尽力により、六百三拾八億九千万余の巨費を投じ海老川改修工事が、平成四年に完成、当地における、出水の憂いが解消した。
治水百年と言われるが、十余年の月日をもっての完工は、見事であり感謝の外言葉もない。
いま町会が、平和で明るい生活が営めるのも心ある先人と、歴代町会長初代高村信三、二代新井善二郎、三代森内繁、四代栗原孝明、五代山崎正樹と役員が中心になり、一致団結「自主運営」と「互助」の心での努力が、今日の成果として結実した。
この度社殿及び自治会館が、町会員の浄財と、市、県の補助金をもって新築落成、これを祝し、御蔵稲荷の由来と町会の成立ちを含め、いく多の関係諸氏に深甚なる、感謝の意をもってこの碑を建立する。
平成七年七月九日自治会館建設委員長 旧本町五丁目町会長魚田薫謹書。
御祭神は宇賀魂神。
境内に九日市村郷蔵跡の碑がある。
飢饉に備え穀物を貯蔵しておく御蔵がこの地にあり、神社名の由来ともなっている。
その御蔵により延宝・享保・店名の飢饉時も死者を出すことなく乗り切ったとの事。
境内は狭いが、綺麗にされていて、地域の方々との結びつきが想像できる。
京成本線 京成船橋駅から徒歩で10分弱。
太宰治が愛した神社としても知られているようだ。
船橋大神宮から駅に向かう大通りから一本入った路地にある。
鳥居と社のみで無人。
朱色の鳥居社殿も同じでちいさいながらお稲荷さんらしかったです近くにあった東照宮と一緒に見てくれると神社の由来が、よくわかると思います。
御殿内にあった御倉にお稲荷さん。
商店街にあるお稲荷様です。
普通の小さな神社。
名前 |
御蔵稲荷神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.3 |
朱色が目立つ蔵稲荷は珍しい社です。
公園の隣り合わせで静かなところにあり、すぐ近くに東照宮もあります。