長州藩と京都江戸を結ぶ海路の起点。
ここは萩往還の終点です。
始点「萩唐樋札場」から全十二里、11基の一里塚の塚木に書いてあった「三田尻舟場」とは、ここのことです。
毛利のお殿様は参勤交代で江戸に上る時、ここからお舟に乗りました。
長州藩と京都江戸を結ぶ海路の起点。
一部を残し他は公園に。
明治以後の塩田開発で埋め立てられて現在の海岸は1~2km先だが、当時はここから船出したのか…。
三田尻御舟倉跡慶長5年(1600)関ヶ原の戦で敗れた毛利輝元は周防長門二ヶ国に減封され初め御舟倉を下松市に設けましたが、慶長16年(1611)に三田尻に移設しました。
以来藩の御舟倉として萩藩の表玄関になっています。
幕末期には海軍局と改称され元治元年高杉晋作功山寺挙兵の時、晋作ら正義派に占拠されました。
明治維新後に廃止。
江戸時代、長州藩の玄関口として繁栄していた事がわかります。
すぐとなりに児童公園があり子どもたちが騒いでたせいかあんまり往時を思い起こすことはなかったなー😅
ワンちゃんの散歩に時々通ります。
御船倉はいわゆる水軍基地であり、三田尻御舟倉跡は萩往還関連史跡の一つとして国指定史跡となっており、現在は公園として整備されている。
無料で見れます。
駐車場がない。
「御舟倉」とは藩主が乗る御座船です、毛利水軍御船手組の根拠地です、萩城築城開始の1611年に萩往還の整備に伴い下松から三田尻に移転され造船や修理の為の施設が設けられました。
三田尻御舟倉跡周りは、すっかり埋め立てられ、池のような形で保存されています。
防府市のWebによると、毛利水軍の本拠地であった所で、藩主の参勤交代や平時の交通、不慮の水戦に備えたものです。
関ヶ原の戦いに敗れた毛利氏は最初下松にあった御舟倉を慶長年間ここに移し、船手組を定めました。
現在は水路や通堀の一部を残すのみとなっていますが、警固町や局ノ内等の地名に往時をしのぶことができます。
との説明があります。
野村望東尼は、慶応3年秋、討幕軍である長州軍の船出を三田尻舟倉で送った、との話が伝わっています。
萩往還は、ここ三田尻御舟倉と萩の町を結んだ道です。
萩往還道の終点。
素晴らしい遺構。
名前 |
三田尻御舟倉跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0835-25-4547 |
住所 |
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評価 |
3.3 |
萩往還トレイルマップ No61