遺構(土塁)が良く残っている。
北土山に入り畑組集会所に車を置かしてもらう。
その北東に城址碑と灯篭が立っており北に抜ける生垣で囲まれた細道を抜けると城址への入口です。
登城路は右手の南出郭と左手のⅥ郭に挟まれた谷間を通って行き、 しばらく行くと路は右に曲がり馬出し状のⅤ郭に入ります。
Ⅴ郭は南の南出郭戸の間に土橋と空堀を設け、北側を除く三方を土塁で囲んだ小さな郭です。
その北側がⅢ郭となっていて南北に長い。
このⅢ郭と主郭との間にⅡ郭があり、これもⅤ郭と同様主郭の馬出し郭です。
このⅡ郭の前後も空堀と土橋が設けられ、技巧的な構造となっています。
主郭は高い土塁で囲まれ、南と北に虎口があり、東と北の下にも横堀が巡っているのが判ります。
Ⅳ郭を含めて土塁と空堀を駆使した完成度の高い中世城郭であり、やはり織田氏の影響が色濃く残っていると感じます。
こんなに人家に近く、これだけの城郭が残っていることに感謝しなければいけないでしょう。
駐車場から主郭まで10分。
(2012年登城)
馬出しを楽しみにしてましたが、方形の虎口でした。
前から来たかった城跡。
狭い迷路のような住宅地の道を進み、空きスペースに車を置かせていただく。
入り口わきにいた方に、ここをまっすぐ行けばつくと、教えてもらい進む。
しばらく進むと、虎口が現れる。
土橋や堀切もしっかり残っている。
高い土塁や、主要な曲輪を囲む空堀も規模が大きく、一目で気に入った。
しかし、やや、下草の繁茂が激しく、またスズメバチもいたので、注意が必要。
特に曲輪内は下草で足元が見えずに、ボコボコと段差があるので、軽い恐怖を覚えた。
ホントにここで良いのかと周辺捜索、ホントにここが入り口か⁉️車を停める場所、道は狭い対向車来たらアウト、入り口の看板がある場所の南側に集会所あり駐車させて頂きました🚙恐る恐る「これより土山城跡」の看板の先へ民家の裏を前進、立派な案内板あり周囲の状況に合わない、この先明確な歩行路不明瞭、恐らく最近の人の行き来を感じない雰囲気😰少し躊躇、少し思案、身の安全、大丈夫か、勇気出して前進突入山林、土山城址の城域へ🚶多数の倒木、何となくの通路を曲輪Ⅴ~曲輪Ⅱ~主曲輪へ、主郭部土塁上から最下部までの高さに驚き、今まで土造りの城郭遺構が良く残ったと感心、少し怖かったですが、登城して良かったです❗️⭐️個人的に「隠れ100名城」⭐️「甲賀郡中惣」独特の方形単郭構造が1辺約50mの主郭部、南側への防御増強による織豊系の築造技術による改修、主郭と南郭の馬出し、虎口、空堀、土塁、土橋などが約440年良好な状態で残っている、凄い😲 歴史的な背景には「小牧・長久手の戦い」の際、秀吉指令で1584年5~6月改修、秀吉の伊勢方面進撃時に滞陣との伝承🤔★お願い、通路は別として、どのくらい保守整備されてるのかなと、このままだと倒木と最近の豪雨で今まで400年以上残った遺構が破壊されて行く様な気がします、何とか後世に良好な状態で残して欲しいです、甲賀市新治地域には国指定史跡の「甲賀郡中惣遺跡群/5ヶ所の方形単郭城跡と2ヶ所の神社」がありますが、個人的には同じくらい歴史的に大事だと思ってます、宜しくお願いします。
よく残ってるよ〜(・∀・)
遺構(土塁)が良く残っている。
しかし、それなりに知見がある方や専門家がいないとわからないと思う。
現地にあまり案内情報は無い。
小牧長久手の戦いの折、豊臣秀吉が駐屯していたかと考えるとワクワクして来ます😤あいの土山文化ホールに車を置かせていただき、歩いて5分くらいで土山城址の看板があります。
この城は甲賀衆の頓宮四方介利盛の次男土山盛忠によって築かれたそうです。
甲賀系城郭に見られる方形曲輪が存在感を示しながらも、角馬出状の二つの虎口は織豊時代の改修が施されていることを意味しているようです。
秀吉さんが来るんで、玄関をリニューアルしましたって感じです❗️
名前 |
土山城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.1 |
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標高298m、登城口から比高35m入口に鏡のように反射する説明板✨民家横の砂利道をジャリジャリ奥に進んでスタコラ登ってくと🚶♂️~枡形の土塁くっきり♬堀切に土橋付き♬主郭手前も土橋に堀切、枡形虎口♬主郭は土塁ぐるーり囲まれる♬切岸も高けりゃ♬底は横堀♬裏に続く尾根には堀切♪登城道西側の尾根にも堀切♪などなどなど遺構がよく残ってる👍️秀吉サマの宿所として造られた..との説が記されてた (・о・) ヘー土造りの枡形虎口が好きな人なら見とれるトコロ (*´-`)⏹️🔲 カクカク