僅かな供回りのみで浜松城へ逃げ帰った。
墓場の一角に石碑が有るだけです。
一応行くと、三方原がかなり広い平野だった事はわかります。
石碑あり、当時の合戦場の陣地配置を示した看板があります。
その地形を見渡せる訳では無いので、ただただ石碑を見るだけの場所です。
浜松駅から来ると、その距離感の近さにびっくりします。
どうする家康 関連で訪れました駐車場は三方原霊園に無料駐車場になります小さな一角にあります駐車場内はトイレ、自販機、売店などもあり便利ですよただ、30分ぐらいでみれてしまいます。
結構車が走る道路の近くなので出庫の際にはお気をつけください。
私なりの「どうする家康トップ6」は、家康の三大危機とされる「三方ヶ原の合戦、三河一向一揆、伊賀越え」に加え、「長篠の合戦、大樹寺にて先祖の墓前で切腹を覚悟、妻子の粛清」となります。
「三方ヶ原の合戦」から浜松城まで逃げ帰る間にもし家康が討たれていたとしたら、徳川幕府による江戸時代は誕生せず、その後450年間の歴史は全く違うものとなっていたはずです。
それほど重要な三方ヶ原の合戦が、暫く前までは教科書や歴史書等で軽く扱われてきたことを不思議に思っていたのですが、近年になって漸く脚光を浴びるようになり、地元民の私は喜んでいます。
元亀3年10月、甲斐を進発した2万5千の武田軍は駿府まで南進後、大井川を越えて遠江に入ると、高天神・天方・飯田等の諸城を降しながら西進を続けました。
見附(磐田市)から天龍川東岸を北上すると、信州から兵越峠・青崩峠経由で合流した山県・秋山隊とともに二俣城を落としました。
なお「兵越峠」は、まさに武田の兵が越えたことに由来します。
元亀3年12月22日(新暦の1573年1月25日)、武田軍は天龍川を渡ると浜松城を攻めると見せかけて南下し、信玄街道(その他に は大菩薩坂、姫街道宇藤坂、休兵坂等も)を三方原台地に登ると、突然浜松城に背を向けて北上を始めました。
しかし、これは長引く攻城戦を避け、家康を野戦にとおびき出すため信玄が仕組んだ「わな」だったのです。
実戦経験の浅い31歳の家康はそのわなにはまり、信長からの援軍3千を足しても1万1千に過ぎない兵力で武田軍を追いました。
しかし武田軍は金指方面へと下る祝田(ほうだ)の坂南側一帯にて魚鱗の陣を敷いて待ち伏せていたのです。
不意を突かれた徳川軍は、あわてて鶴翼の陣にと展開しましたが、2万5千以上の武田軍との兵力差は歴然でした。
その上、上杉謙信等との歴戦を経て老練な信玄を前に、若く経験不足の家康に勝ち目はなく、結果的には惨敗を喫しました。
雪の降る三方原町から根洗町付近にて、午後4時頃に始まった合戦は日暮れ過ぎに勝敗が決しました。
浜松城まで1kmほどの犀が崖まで辿り着いた家康は、身代わりとなって討ち死にした夏目吉信や、刀一本で武田軍に斬り込んで討ち死にした本多忠真(本多忠勝の叔父)ら多くの家臣の犠牲のもと、なんとか浜松城までたどり着くことができたのです。
合戦後、武田軍は三方ヶ原からわずか数km先の刑部(おさかべ)村で十数日間停滞して越年しています。
その間、家康はさぞ眠れない日々を過ごしたことでしょうが、浜松城は攻撃を受けませんでした。
四ヶ月先に死を迎える信玄の病状のためか、城攻めが長引いて信長の援軍が駆けつける恐れがあったためか、その後信玄は三河の野田城攻略にと向かいました。
広大な敷地に、墓石が並び霊園となっています。
ここに来る途中何かざわざわして、目的地が近づくにつれざわつき感が激しくなり、到着したらピークになりました。
せっかく来たので、園内を歩いてみましたが、とても息苦しく呼吸が乱れてきたのですぐ引き返しました。
こういう事は有りませんでしたが、この地のパワーなのか?愛知県境に入ってざわつき感は治まりました。
信玄と家康の戦いの地ですが、不思議なとこです。
三方ケ原の戦いが、行われた場所と言われていますが、実際はここではないと言われ、場所はよくわかっていません。
ただ慰霊碑があり、この周辺で行われたことはうかがえます。
今は墓地や公園となっており、駐車場が広いので、安心して車を停めることはできますが、見る場所はほとんど無くて、数分で帰りました。
この辺りは土が悪く水も無いので、平野ですが、当時は作物は栽培されていませんでした。
家康にとっては、予想外だったとはいえ、こんな場所で戦えば、どう考えても、騎馬隊有利で、負けは必至。
織田の援軍も、負けを確信して、ほとんど戦に参加していません。
ここから、浜松城まではほとんど一本道なので、たどってみると、興味深いです。
三方原霊園の駐車場があるのでアクセスはしやすいです。
立派な石碑。
浜松城~犀ケ崖合戦場/資料館~二俣城址などと一緒にチョッと立ち寄りで良いと思います🚶🚙家康と徳川家臣団の歴史には重要な地🤔
三方原の戦いの古戦場碑と説明板が建っています。
何てことないと思う人も多いかもしれませんが、戦国時代の一大ハイライトの地になります。
少し先に、祝田の旧坂がありますが、祝田の坂を降りたところでの合戦なのか、降りる手前で反転していたのかは意見が分かれるところです。
それ以外にも、いろいろ諸説あると思います。
個人的には、おそらく降りる道は今よりも狭くて大軍がすんなり通れなかったとすると、台地の上での合戦だったと思ってしまいます。
ちなみに、祝田の坂は、石碑の前を真っ直ぐ行くと突き当たり民家に入ってしまうため、下に車を停めて登るのが正解だと思います。
説明板は平成28年となっていて、旧来の本隊は天竜川を南に進軍という説から、高天神城の傍を通って、となっていました。
有名な古戦場の割に墓地公園の駐車場の外れに石碑と説明板がボツン。
説明板だって直虎ブームの時に慌てて設置した。
それが浜松市の文化レベル・・・。
古戦場跡を見ようと思って出向いたらこれしかないと思って良いのでほぼ無駄足です。
良く探さないとわからないところにある。
もっとすごい古戦場碑かと思ったらちょっとガッカリでした。
徳川家康生涯唯一の大敗北(三方ヶ原の戦い)武田軍によって徳川軍の各隊が次々に壊滅していく中、家康自身も追い詰められ、夏目吉信や鈴木久三郎を身代わりにして、僅かな供回りのみで浜松城へ逃げ帰った。
敗走とは言え一矢報いて自刃せずに済んだ。
後の歴史的には大きな出来事。
石碑と案内看板が見られます。
訪れる人はそんなに居ないけど、たまに観光バスが停まっています。
駐車場は隣の、三方原霊園に停められます。
名前 |
三方原古戦場 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
053-457-2021 |
住所 |
|
評価 |
3.5 |
「戦場の場所は定かではありません」というようなことが明記されています。
三方原の雰囲気は 体感できる場所ですね。