史跡高田城跡・天神様 / / .
風光明媚。
歌枕見て参れ。
付録:高田城に関する史料*********************************************************高田城は、村田川上流域の南岸に位置し、北側に張り出した半島状台地にある。
台地は基部がくびれてほぼ独立した状態をなし、東から北側にかけて断崖をなし、西から南に谷が入り込んでいる。
台上に、天神・日枝神社の二社が残されている。
城の築造年代は不詳であるが、後北条氏の武将高田直勝が志藤郷(市東)を領有し、本城を築造したといわれている。
また城主の名は不明であるが、天正十八年(1590)に豊臣秀吉の軍に攻略され、先鋒をつとめた真田某と戦い、敗色が濃くなると城を焼き払い、自刃したといわれている(『市原郡誌』)*********************************************************以上「日本城郭大系6千葉・神奈川」より抜粋。
名前 |
史跡高田城跡・天神様 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
2.3 |
当地は、三方を崖に囲まれ南方(赤松方面)の尾根道のみ進入出来た天然の要署の地で高田で一番標高の高い場所です。
大正五年(一九一六年)編さんの「市原郡誌」には、十六世紀後半(信長、秀吉の頃)小田原北条の臣、高田直勝が砦を構え、高田という地名の由来とされています。
それ以前は、高倉と併せ「御竹倉」と称されていたということです。
日枝神社の石鳥居は文化九年の彫込みがあり、一八一二年の造営です。
当地への石の搬入を含め、村を挙げての一大事業であった事が偲ばれます。
天神様は、そばの楠が直径九十センチほど、樹令二百年前後と推定されることから石鳥居と同じ頃に祀られたと思われます。
当時は一七〇〇年代から地方にまで寺子屋教育が普及し、各地に、学問の神・菅原道真公の天神様が祀られた時代です。
高田町会では、平成十九年、老朽化した天神社を形と大きさの基本だけ旧のものに倣いながら、最適の材料・最新の工法を用いて全て一新しました。
鉄筋コンクリート二段基礎、総べいひは芯去り材造り、屋根銅板葺きです。
内陣に鎮座するご本尊だけは古いもので、両肩は欠け落ち、烏帽子や天神ひげは失われておりますが、木の朽ち具合から江戸時代創建当初のものと推定されます。
【現地案内板より抜粋】要害の雰囲気はあまり感じられず、城跡としての痕跡は見つけられませんでした。