石神井城の陣城跡地で歴史探訪。
愛宕山砦跡(愛宕山城跡)の特徴
太田道灌が使用した歴史的な陣城跡地です。
愛宕山城跡は石神井城攻防の舞台となりました。
厳かな雰囲気が漂う東京都練馬区の史跡です。
太田道灌が石神井城を攻めるのに使用した陣城跡地です。
Googleマップ上は『愛宕山城跡』と『愛宕山砦跡』の二つがありますが、『愛宕山城跡』側が本陣で、『愛宕山砦跡』は末端部ではないかと思います。
こちらも早稲田大学高等学院・中学部の敷地にあり、見学も申し込んだのですが、学校側としては発掘はしておらず、これといった遺構はないとの事でしたので、外側から眺めてみました。
上石神井駅から歩いていくと、この場所がなぜ陣城に選ばれたのかが朧げにわかります。
まず、石神井川が天然の水堀の役割を果たしており、石神井城との間に適度な境になっており、不意を突かれることはなかったでしょう。
また、早大学院前交差点から石神井川までは245号線・上石神井通り共に下り坂になっているのですが、愛宕橋近くの『愛宕山城跡』だけは土質が浸食されにくいのか、川に面した高台になっています。
石神井川の対岸(石神井城側)から『愛宕山城跡』を眺めても愛宕山城の岸辺は高くなっており、往時は陣地構築に向いていると判断したのもむべなるかな、という所であります。
これに対して『愛宕山砦跡』は、対岸との高低差はないため、本陣ではないのでは、と思いました。
ただ、現代の技術で護岸工事や宅地造成もされているので往時と川の形も違います。
今よりも川原周辺は高低差があったりしてそこそこの障壁になったり、土砂を詰めた俵や楯などで防御すればそこそこ安心だったのではないでしょうか。
それにしても、愛宕山城を見た豊島氏は、石垣山一夜城を見た北條氏や、墨俣一夜城を見た斎藤氏のように脅威を感じたに違いありません。
ただ、史実を見ると江古田・沼袋の合戦から豊島泰経が石神井城に逃げて太田道灌が愛宕山城に陣を置いてから、石神井城落城まで14日間しか要していないので、きちんとした城があったのか、私は少し懐疑的に思っています。
陣所跡とかにした方が良いんじゃないかな…?学校になっているのでおいそれと発掘できないと思うのですが、地中レーダーなどでの調査に期待したいところです。
名前 |
愛宕山砦跡(愛宕山城跡) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.2 |
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ブロック塀で囲ってるだけで、損失。
区は観光名所として公園などにして開発すべき。
人が立ち入れないので、立ち入って見学できるようにするといい。