源義経の恋人である静御前のお墓がある。
栗橋駅出てすぐの場所にある。
実際の歴史では静御前は義経の側妾に過ぎずその生涯も伝説通りではないと聞いていたが境内に石碑が沢山建っているのを見ると古来より御前を崇敬する人は多かったようだ。
静女との表記が時代を感じさせる。
久喜市のJR栗橋駅前にある静御前の墓をお参りしてきました。
兄の源頼朝に追われ奥州に逃れた義経のあとを追う途中に義経の討死を知り、悲しみのあまり病となり、文治5年(1189年)9月15日に現在の久喜市伊坂で亡くなったとされています。
なお静御前の終焉の地については諸説あり、ここもその伝承のうちの一つです。
かつての村名は「静村」でした。
その静村はもともと6つの別々の伊坂村・佐間村・松永村・間鎌村・高柳村・島川村が合併して誕生した村です。
静村は1957年に栗橋町・豊田村と合併した時に消滅し、現在は久喜市となっています。
当地には静御前の墓が残され杉が植えられました。
墓に墓標がなかったため享和3年(1803年)に勘定奉行・関東郡代であった中川飛騨守忠英により建立されました。
墓上の杉の木は弘化3年(1846年)の洪水により枯れてしまい、その後銀杏が植えられています。
同じ敷地内には、源義経招魂碑、義経と静御前の子供の慰霊塔、座泉の歌碑(江戸時代の歌人である坐泉がこの墓にきて静御前を思い「舞ふ蝶の 果てや 夢見る 塚のかげ」と元禄のころ歌ったものを村人が文化3年3月(1806年)に石碑として建てたもの)、静女家碑(明治時代の漢学者の岡 鹿門の撰文による石碑で、静御前のことを漢文で記している)、静桜とよばれる桜の木があります。
源頼朝の弟であり、壇ノ浦の戦いなどで有名な源義経の恋人だったのが静御前です。
静御前は、舞を職業とする白拍子(しらびょうし)として有名で一説によると、雨乞いの舞によって、3日間雨が続いたとのこと。
兄の源頼朝に攻められ、奥州に逃れた義経の跡を追う途中、義経の討死を知り、京都に帰り仏門に入ろうとしましたが、た帰京の道中、悲しみのあまり病となり、文治5年(1189)9月15日に伊坂で亡くなったとされています。
ちなみにドラえもんに出てくる源静香の名前は静御前に由来しているとか。
お墓とは思えないほど綺麗に整備されており、地域の方々に大切にされてると感じました。
義経を追って東北を目指すが途中で、義経が亡くなったと聞きこのあたりで、体調を悪くし亡くなり、侍女がお寺に葬り・・そのお寺も今はない・・どこだかわからないよくある話古い墓石もありますがそういう言い伝えがあったので、邪見にせず大事にしてきたのでしょうか?観光の目玉にしたかったのか、ちょっと荒れてるような感じもしますが新しい墓石は立派です。
利根川の対岸の鶴嶺八幡宮へのお詣りの為に、栗橋駅の改札口を出た。
静御前の縁の地の観光用の看板を見て、またかと眉を潜める。
下野国国分寺跡の公園に紫式部の墓の案内があり、藪蚊に刺されながら辿り着くと、むらさきのと言う地名に所以するとの落ちだった。
義経終焉の地平泉高館や、腰越状の地を訪ねているので、ガセではないかと疑ったが、信憑性があることに安心した。
義経は奥州に逃げたのでした。
静御前は待女を共に奥州の義経のもとへ向かうのだが、途中この辺りの橋で義経が亡くなったと聞き及び行くべきか戻るべきか悩んだ末に戻ることにしましたが、御前は体調を崩し此処で命を落とすのでした。
そのため侍女が高柳寺に菩提を弔いましたが寺が移り今ではそのお寺もありません。
そんな話を聞き及び此処を訪ねました。
何度か移転したした寺は古河市の中田光了寺で現存していますが、こちらは真宗大谷派で親鸞上人が開祖のお寺となっています。
静御前に合掌🙏令和四年五月二十日。
栗橋駅から100mの商店街クラッセの中にある久喜市の史跡、源義経の恋人である静御前のお墓がある。
大きな静御前の看板は看板にする為に静御前の像から撮影した写真が元、その写真は10年前に私が撮影しました、静御前終焉の地と言われいる。
静御前は磯の禅師の一人娘です。
仁安3年,1168年に生誕。
文治5年1189年9月15日、この地で死去と伝えられています。
当時、この地にあった高柳寺に遺骸を葬られたそうです。
毎年9月15日は静御前の命日ですので、静御前の祭りがあるそうです。
源義経終焉の地が平泉であったせいか?、別行動であった静御前に纏わる伝承の地が東北方面に多い。
史実か否かは不明。
以下Wikipediaより鈴ヶ神社 (岩手県宮古市鈴久名)静御前墓 (新潟県長岡市栃尾地域(栃堀))美女池・静御前堂 (福島県郡山市)静御前通り (〃 〃)御前井戸 (福島県伊達市月舘町下手渡)亀井の水(宇都宮市下河原町)鏡ヶ池 (宇都宮二荒山神社の下之宮西側)御前桜・静さくら (宇都宮市野沢町)思案橋 (茨城県古河市下辺見)現・光了寺 (茨城県古河市)〔埼玉県久喜市栗橋にあった元・高柳寺〕静村 (かつて埼玉県北葛飾郡にあった村。
現在の久喜市北部あたり)静女の墳 (埼玉県久喜市栗橋)静御前墓と義経招魂碑 (当地・栗橋駅 東口)静御前墓と磯禅尼供養碑 (長野県大町市美麻大塩・薬師寺)
栗橋駅を出てすぐ近くにあります。
横には地元の商店街があり、人通りは多い場所にあります。
京都からこの“栗橋の関所”まで義経を追ってこられたのですね。
栗橋駅東口徒歩1分。
このために下車することはおすすめしませんが、近くの居酒屋さん目当てなら立ち寄っても良いと思います。
栗橋駅の東口からすぐ。
この辺りは旧宿場町の雰囲気を残していて歴史的な建造物も見られます。
源義経の内妻であった静御前は義経の後を追って平泉に向かう途中、 文治5年(1189年)9月15日、久喜市伊坂で悲恋の死を遂げたと伝わっています。
そして、侍女琴柱が 静の遺骸を当時この地にあった高柳寺(現・中田光了寺)に葬ったとのことです。
名前 |
静御前の墓 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0480-53-1111 |
住所 |
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関連サイト |
https://www.city.kuki.lg.jp/smph/miryoku/rekishi_bunkazai/bunkazai/shiseki/shizuka.html |
評価 |
3.7 |
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綺麗に整備されています。
そして解説が詳しく書かれていて、勉強になりました。