この立野原が帝国陸軍第9師団の演習場だったころの建...
本当に戦争があったんだなぁと。
先人達のお陰で今があると思うと、何だか感慨深いです。
監的壕からの見晴らしが良かった。
この立野原が帝国陸軍第9師団の演習場だったころの建物。
舗装はされてませんが駐車場があり、説明板も設置されています。
桜が池に同様の円山監的壕もありますが、あちらと違いここからの眺めは良いですよ😃
藩政期の古戦場ではありません。
80年程前まで本当に使用されていた施設です。
圃場整備される前までは近辺で銃弾、砲弾が見つかりました。
田んぼの中にあります。
田んぼで作業している人は居ても、監的壕を観に来る人はほとんど居ません。
go の let's goシニアさんウエブサイト引用:立野ヶ原の監的壕(たてのがはらのかんてきごう)福光町の南の丘陵地帯は立野ヶ原と呼ばれていて、現在はのどかな田園地帯になっていて、特産の柿を栽培する果樹園や畑作、水田などが広がっています。
この丘陵地帯の歴史をひもとくと、1898(明治31)年ごろからこの地は日本陸軍の演習場であった時代が有ります。
日清戦争が1895(明治28)年で終わった後の1898(明治31)年に砲兵装備を有する金沢第9師団が設立されました、設立と同時期に陸軍省はこの立野ヶ原を射撃演習地として着目して、四回にわたって147万坪(一節では180万坪とも言われている)を買収して「立野ヶ原陸軍演習場」を設置され、砲兵のみならず諸兵科の訓練場として全国でも富士山麓に次ぐといわれる大演習場となった。
現在の立野ヶ原の一角にある桜が池では、湖畔の杜の中に遊園地や宿泊施設があってのどかな光景が見られます、湖畔の後方にこんもりとした丸い山が見えますが「丸山」です、演習場時代には砲撃の着弾地の目標になった山です。
目玉監的壕(めだまかんてきごう)この監的壕は半地下式になっていて、見る方角によっては遠くから見つけることが出来ません、形状から「目玉監的壕」の名前で地元から呼ばれて来ました。
表示看板の原文:立野原監的壕(目玉監的壕)日清戦争後の明治31(1898)年、金沢に砲兵装備を有する陸軍省第9師団が設置され、その演習場として立野原一帯が買収され、450ヘクタールを超える大型演習場となりました。
砲兵の実弾射撃は飛野(現 南砺自動車学校付近)を拠点として実施され、約4㎞先の立野原周辺を着弾地としており、砲弾の的中率、性能効果を監察する為に監的壕がいくつか設けられました。
当初は土坑であったものが、昭和3年頃に近代的で強固なコンクリート製に改修されました。
構造は半地下式、監的室は円形型、ドーム屋根で導入路が付いています。
この監的壕は、その形状から地元では「目玉監的壕」と呼ばれ、保護されてきました、かって立野原が軍事演習場として利用された歴史を今に物語る貴重な存在です。
民報城端NO.410 2014年5月 引用:南砺市指定文化財(史跡)2014/4指定明治31年(1898)11月、金沢に砲兵装備を有する第九師団が設置された。
陸軍省はその射撃演習場として立野原に着目し、翌32年5月から当時の南山田・太美山・東太美各村にまたがる一帯を買収して「立野原陸軍演習場」を設置した。
演習場では実弾射撃訓練が行われ、特に砲兵の実弾射撃は、飛野(現南砺自動車学校のあたり)を拠点とし、丸山周辺を着弾地としていたので、砲弾の的中率、性能効果を観察するための「監的壕」がいくつか建造された。
当初は土坑であったものが、昭和初期に当時貴重な資材とされていた強固なコンクリート製に改修されたようである。
これらの監的壕は、立野原台地がかつて軍事演習場として利用された歴史を今に物語る遺構として貴重な存在である。
残すべき物だとは思いますが保存の方法が問題かもしれません日露戦争の頃からの物らしいので貴重な負の遺産なんだと思います。
名前 |
目玉監的壕 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.6 |
農場の中にある監的壕農地を進んでいくと辿り着くのですが結構農地のど真ん中にある為か本当にあるのか不安にあります途中砂利道に変わり目的地は芝生くらいの背丈の草地になっています。
栄養がいっぱいなのか他に何か原因があるのかわかりませんがヤスデが大量にいます草地をみると黒いのがウネウネ沢山歩いている監的壕の中にも壁に数匹張り付いていました虫苦手な人はちょっとやめておいた方がいいかもしれません変わった珍写真を撮れる場所としては面白いと思います砂利道からは道幅が狭くサイドから草木が出てるので車のボディはキズがつくかもしれません。