ご府内八十八カ所巡りのお寺です。
御府内八十八ヶ所霊場の御朱印を頂きに参拝。
御府内八十八ヶ所霊場と豊島八十八ヶ所霊場、滝野川寺院めぐりの札所です。
上中里駅から豊島方面へ台地を登った場所にあり、すぐ近くには律令時代の武蔵国豊島郡衙跡と言われる平塚神社があります。
さて縁起でありますが、昔、筑紫の安楽寺の僧侶が諸国巡礼の途中、城官寺に宿泊し、訳あって本尊の阿弥陀如来像を奉納したため安楽院と称した。
ちなみに当時の宗派は浄土宗だったそうです。
寛永11年(1634年)に山川貞久(城官)が社領修理をおこなった時に別当とした時から現在の宗派になったと言われています。
御朱印は本堂向かって左手に寺務所がありますが、直書きは現在受け付けておらず、玄関前に机と棚が置いてあり、そこから自分で御朱印を取り出し日付を書いて…という形になります。
御朱印は通常の御朱印帳に貼り付けるものだけでなく、御府内八十八ヶ所霊場専用御朱印帳の、横にパンチ穴の開いた差し替え用のものも有り。
確か御朱印代を納める所もそこにあったと思います。
上中里の丘の上にあり、創建から約400年の真言宗豊山派の古刹です。
本堂手前には屋根付きの休憩しもあり、飲料の自販機も設置されています。
本堂横には、くまモンとピカチュウが設置されています。
都内にありますが、騒音などとは無縁のところで、鳥の鳴き声しか聞こえてこない、とても静かな場所です。
山門の扁額は田中角栄氏が書いたものです。
そばに旧古河庭園や平塚神社があります。
多紀桂山一族墓東京都指定文化財(旧跡)昭和11年3月4日指定多紀藍渓は桂山の父で、名医丹波康頼の子孫である。
安永年間(1772~81)侍医となり、法眼に叙し、やがて法印に進んだ。
彼は製薬所を設置し、医官の子弟をことごとく就学せしめて教育に尽した。
享和元年(1801)5月14日歿。
年七十。
桂山は父藍渓のあとを襲い、幕府の医官となった。
寛政2年(1790)侍医となり、法眼に叙し、医学教諭を兼ねたが、享和年間侍医を罷免された。
その後著作に専心し、多くの医学書を残し、文化7年(1810)12月2日、年五十六で歿した。
元安は桂山の子で文政10年(1827)6月2日40才で歿したが桂山の二男元堅は別家を本石町に立て、幕府の奥医となり、法院に進み、医学館の教授となった。
安政4年(1857)9月14日に歿した。
平塚山城官寺。
真言宗豊山派の寺院。
御本尊は阿弥陀如来。
住宅街の中にある、とても静かな環境にあるお寺です。
実家のお墓参りに年に2~3回伺っています。
最近は見かけないのですが、猫が日向ぼっこしている姿にいつも癒されています。
先日伺った時は、あまり見かけない鳥がお寺の周りに沢山いました。
雀より小さく、鳴き声がとても可愛い鳥でした。
動きが速くて写真に収める事が出来ませんでした。
真言宗豊山派、御本尊は阿弥陀如来山門の平塚山は開創三百年を記念し、内閣総理大臣の田中角栄氏の筆によるもの。
敷地は狭いですが、駅から近いので楽なのと、猫が多くて楽しいです。
ご葬儀で伺いました。
駐車場もありますが、山門左側は狭いので、あまり大きい車で運転に自信の無い方は慎重に運転してください。
路地が狭いのでご注意を。
御府内八十八ヶ所のご朱印を頂きにお参りしました。
京浜東北線上中里駅から徒歩2分くらいの近くにありました。
檀家ではありませんが、お通夜と告別式をさせていただきました。
火葬場と離れているので、霊柩車、マイクロバスで町屋の火葬場まで行かなければなりません。
が、町屋でまとめてやるのと違って、一家族で二日間貸しきれるので、知らない方に気を使ったりすることなく、心ゆくまで故人を悼むことができました。
こちらにして良かったと思います。
真言宗豊山派のお寺です。
江戸御府内と豊島八十八ヶ所刺される札所です。
手書きの御朱印とお菓子をいただきました。
とても丁寧に対応して頂き御朱印を頂きました。
ご府内八十八カ所巡りのお寺です。
特徴はありません。
本尊は、阿弥陀如来です🙇
2017/2/4拝受 御府内八十八ヶ所霊場第47番札所&豊島八十八ヶ所霊場第47番札所。
山門に書かれた「平塚山」の文字は、城官寺300年を記念して田中角栄元総理によって書かれたもの。
有り難く御朱印(阿弥陀如来)を頂きました!
城官寺は御府内八十八ヶ所霊場 47番札所である。
山門には田中角栄元首相の筆による扁額が架かっている。
これは、元首相の秘書であった榎本某氏がこちらの寺の檀家さんであることから書かれたものとのことです。
筆蹟の優劣はわからないが、なかなか伸びやかな書体だとおもいます。
名前 |
城官寺 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
03-3910-3343 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.7 |
真言宗豊山派 平塚山 安楽院 城官寺。
創建は不詳である。
江戸時代に江戸幕府第3代将軍徳川家光公の病の平瘉を祈願して信頼を得た山川城官貞久がこの寺に入り、寛永11年(1634年)に中興したと伝えられる。
山門に掲げられた「平塚山」の文字は田中角栄元総理の筆によるものである。
境内には江戸幕府の医官、待医となった多紀桂一及び一族の墓所がある。