神指城跡 桜 鳥のさえずり やっぱりココが一番好...
安土桃山時代、越後より会津に転封した上杉景勝が鶴ケ城に代わる新しい城として築城。
しかし、この築城が徳川家康の上杉討伐の口実となり、家康の会津遠征が間近に迫ったため工事は中止。
関ヶ原の戦いで上杉並びに西軍が敗北。
戦後処理で上杉景勝は米沢に減封された事で幻の城となりました。
本丸の大部分は私有地でグラウンドや畑になってます。
裏から小高い丘に入る事が可能ですが、地元の方々の墓地があるぐらいで目立った物はありません。
少し離れた所(福昌寺となりの大ケヤキ)が二の丸の土塁跡として僅かに面影を残しています。
神指城跡 桜 鳥のさえずり やっぱりココが一番好きなところ(≧∇≦)良かったぁ〜今年も来れて🎶
1598(慶長3)年正月に、太閤豊臣秀吉公の命により越後から会津へ移封した上杉景勝公は、会津盆地の東南隅に位置する会津若松城(鶴ヶ城)が狭隘であり、かつ東側の山々に近過ぎていて、当時広まり出していた大砲の目標になる事こと患い、1600(慶長5)年2月より盆地の中央で阿賀川畔の神指ヶ原に新城の建設をはじめました。
惣奉行は執政の直江兼続公でした。
会津若松城が大砲の目標になる場所に有ったことは、明治の会津戦争で明らかになりました。
12万人を動員して、本丸は3月より6月まで石垣を築き、二の丸は5月に始まり、6月には土塁や堀の形が整いました。
しかし、この一連の領内の工事が徳川家康公の会津征伐の口実の一つとなり、迎撃のために築城は中止にされ竣工はしませんでした。
1601(慶長6)年、上杉景勝公は出羽米沢へ減移封となり、この築城途中の神指城は破却され、石垣の石は会津若松城へ運ばれたようです。
城の位置と縄張りから、この城は軍事目的のみで築かれたものでは無く、阿賀野川の支流の阿賀川の河川交通を意識したものである事は明白です。
景勝公と兼続公は、そこに新たな経済効果を狙った城下町を築く予定でした。
実際、屋敷城を拡大した輪郭式の構造になっていて、軍事優先的な構造にはなっていませんでした。
本丸と二の丸で構成される輪郭式平城で、本丸は東西310メートル、南北340メートル、ニノ丸が堀を含めると東西710メートル、南北780メートル、面積55ヘクタールで、鶴ヶ城を遙かに凌いでいました。
惣奉行の直江兼続公は現在も城の表鬼門の土塁遺構に存在する「高瀬のケヤキ」と、北極星を基点に縄張りしたと伝えられています。
桜の時期は素敵。
磐梯山と神指城跡のツーショットを是非撮影して欲しい。
ナビで向かうと、田んぼの中に二箇所ほどぽつんと小高い森が。
一箇所がここで、もう一箇所が土塁跡。
こちらは私有地なので中には入れないが、土塁跡の方は、木製の階段と渡り廊下の様な通路があり見学できる。
両方とも駐車場は無い。
土塁跡の方は説明板も有り、数メートルの高さの丘の上から周囲を見渡すと周りは田んぼ。
防御が難しいんではないかと。
だから未完成だったのでは?と思える。
木製の通路が珍しくグルッと大けやきの周りを一周している。
つまり城跡用では無く、けやき用なのかと今頃気づく。
土塁の上に生えた大けやきが天然記念物になっており、歴史を感じさせる。
地元の方と お話をして わかったことが有ります。
田畑の耕地整理の時に 史跡をかなり変形させてしまったらしいね😅本丸跡地を中心にして 四つの角地は整理された田んぼの遠くに見える。
なんとか 地元の方の立て看板で辛うじて【神指城跡】が分かります👌これからも なんとか史跡を 守って欲しいです。
名前 |
神指城本丸跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.5 |
周辺のオススメ
![](./loading.gif)
城の南東端、高校のグラウンドとなっているところに、本丸跡と書かれた棒と案内板が立っている。
西端に城内ヘ続くような道があって、入り口左端の分かりにくいところに城の再現絵がある。
この道の先にはお墓があって、更にその先は蜘蛛の巣だらけなのでこれ以上進める感じがしない。
そもそもこの城は未完の城である。
1600年頃に上杉氏が東北の拠点として築城しようとした。
その広さは鶴ヶ城のおよそ2倍、天守閣も建てようとしていたが、関ヶ原後の幕府の令によって、完成を見ることなく破城となった。
石垣は全て鶴ヶ城に持っていかれた。
会津若松駅からは徒歩1時間くらい掛かるので、レンタサイクルがオススメ。
駐車場は無いので城東端に路駐。