名前 |
久我神社 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
093-201-1095 |
住所 |
|
評価 |
4.3 |
『久我神社由緒 祭 神一、久我神社祭神 ・彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)、玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)一、合祀神社祭神 ・軻遇突命(カグツチノミコト)、大直日命(オオナオビノミコト)、神直日命(カムナホヒノミコト)、八十禍津日命(ヤソマガツヒノミコト)、宇賀神(ウカノカミ)、地主神(ジヌシガミ)、稚産霊命(ワクムスビノミコト)、伊弉諾命(イザナギノミコト)、菅原道真命、闇龗神(クラオカミノカミ)、罔象女神(ミツハノメノカミ)、猿田彦命(サルタヒコノミコト)、伊都岐島姫命(イツキシマヒメノミコト)由 緒 神社創建時期は不詳であるが、社伝によれば神功皇后征韓の途次、筑紫岡湊に御滞在の折、当古賀村に三神鎮座を聞召(キコシメ)し、今の字 惣仙洞にて釣り上げられた鱸を蓼の穂と共に神前に供えられ征討の勝利を祈られたとある この遺風が保蓼の神事である。
これは神前において蓼の葉を刻みて顔面に塗り皮膚への滲み具合によって其歳(ソノトシ)の豊凶を占う神事であるが、現在は途絶えている。
この神社は中古の御世「古賀、朳(エブリ)、頃末」の三村の産土神として広く崇められ、又筑前山鹿城主、麻生氏の出城が久我嶽の山頂にあり、その崇敬殊(コト)に厚く郡中七大社の一つであった。
当時本社は区の南方久我嶽の麓にあったが落石による社殿の破壊度々なるを以って三村に分祀される事となり、頃末には元亀二年(一五七一年)に朳には天正十六年(一五八八年)社殿が設けられた、同時に本社も字亀の甲に御遷座申し上げた、又宝暦九年(一七五九年)それ迄「伊豆神社」と称していたのを「久我神社」と改めた、明治四十三年本社を今の地に御遷座、併(アワ)せて豊前坊山にあった髙住神社(旧豊日別神社-トヨヒワケジンジャ)及、相殿疫神斎(エキジンサイ)、字、京原鎮座の多賀神社字、惣仙洞鎮座の貴船神社及 各神社の境内社を合併合祀した。
この大神は古来安産の神として崇められ、古賀村には難産の煩いがないと言われる。
』