高校がありますがそこが跡地になります。
東金城は、1521(大永元)年に酒井定隆と隆敏が土気城から田間城を経て東金に移り築いたといわれる。
(別名:鴇ケ根城)東金御殿(鷹狩御殿)1614(慶長19)年、徳川家康が土井利勝に命じて造成した東金御成街道終点の宿泊所。
「東金御殿」と言われても現在は何の遺構も残っていません。
御殿があったと思われる付近は今は校庭となっています。
伝えるのは案内看板のみです。
東金御殿は江戸幕府を開いた徳川家康が付近での「鷹狩り」の為に建築されたとの事です。
(鷹狩りに来るだけの道も「御成街道」として整備されています)、付近には家康と縁の深い寺院も点在しています。
城郭とまではいかないですが、普通の住宅とは部屋数も豪華さもはるかに違った施設だったようです。
(戦国時代は付近に東金城があったようですが……)
高校がありますがそこが跡地になります。
旧東金街道にはもう一つの入口跡地があります。
始点の船橋から約37km、御成街道の終点にあたる御殿跡は、現在東金高校の敷地になっていて目に見える遺構らしきものはありません。
元禄年間に残された古地図によると御殿には弓部屋、鉄砲部屋、家臣、側室など40を超える部屋があったそうです。
三方を山に囲まれ、一方は八鶴湖になっていて敵に襲われにくい場所に建てられました。
この地の鷹狩りには家康公が2回、二代将軍秀忠公が9回、三代将軍家光公が1回訪れています。
また家康公が東金御殿に続く御成街道を急造させた目的は江戸湾の入り口を支配してた外様大名、安房の里見氏の動向を急いで探る必要があったのではないかと推察されています。
「ちば見聞録より」
名前 |
東金御殿跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
一度来てみたかったので、見られてよかったです。