戦国期には駿河(するが)の戦国大名 今川氏の配下に...
【 国指定史跡 彦根藩主井伊家墓所(ひこねはんしゅいいけぼしょ) 】井伊家は、遠江国(とおとうみのくに)井伊谷(いいのや):現在の静岡県浜松市の北部にある引佐町(いなさちょう)を中心に勢力を持った武士で、戦国期には駿河(するが)の戦国大名 今川氏の配下にありました。
井伊家24世とされる直政(なおまさ)は天正3(1575)年、15歳で徳川家康に仕え、慶長5(1600)年の関ヶ原合戦においては、自ら先鋒を務め、東軍の勝利に貢献しました。
※本当は、東軍の先陣を任されたのは豊臣恩顧(おんこ)の武将、福島正則(ふくしま まさのり)の部隊でしたが… 直政が、家康の四男で娘婿の松平忠吉(ただよし)と少数の部隊を引き連れ、福島隊の前へ出て西軍に襲いかかるという、軍規違反の抜け駆けをしてしまったそうです。
が… 東軍の勝利が確定した時、追い込まれた西軍の中で敵中突破(てきちゅうとっぱ)を図るという、島津義弘の軍勢の大胆な逃亡作戦「島津の退き口(しまづの のきぐち)」を追撃した際、直政は鉄砲で撃たれ右腕に重傷を負ってしまいました。
忠吉(ただよし)に殊勲(しゅくん)の機会を作り、命懸けで徳川のために戦い抜いた直政に対し、家康は自らの手で直政の傷口に薬を塗り、その労をねぎらったそうです。
合戦後、直政は近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)佐和山(彦根)に18万石を与えられ、初代藩主として彦根藩の礎を築きました。
続く2代藩主 直孝(なおたか)も大坂夏の陣で功績をあげ、近江国(おうみのくに)、下野国(しもつけのくに:現在の栃木県)、武蔵国(むさしのくに)世田谷にあわせて30万石を有する譜代大名(ふだいだいみょう)筆頭格となりました。
以後、幕末までこの家格(かかく)は堅持され、桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)で知られる井伊直弼(なおすけ)を始め、江戸幕府の最高職である「大老」を5人も輩出した井伊家は、徳川家にとってなくてはならない存在でした。
寛永10(1633)年頃、世田谷が井伊家所領となったのを機に、領内の弘徳院が菩提寺に取り立てられました。
直孝の没後には、その法号「久昌院殿豪徳天英大居士」にちなみ、豪徳寺と寺号を改め、以後、井伊家墓所として、江戸で亡くなった藩主や家族がここに葬られました。
彦根藩主井伊家墓所は、豪徳寺、清涼寺(せいりょうじ:滋賀県彦根市)、永源寺(えいげんじ:滋賀県東近江市)の三ヶ寺にあり、歴代藩主とその一族の墓が網羅されています。
各墓所は、将軍家側近でもあった井伊家の姿を物語り、江戸時代の幕藩体制と大名文化を考える上で欠くことのできない貴重な遺産であるため、一括で「彦根藩主井伊家墓所」として、平成20年3月28日、国史跡に指定されました。
豪徳寺に所在する藩主の墓石→ 2代:直孝(なおたか)、6代:直恒(なおつね)、9代:直禔(なおよし)、10代:直幸(なおひで)、13代:直弼(なおすけ)、14代:直憲(なおのり)招福観音菩薩立像が安置されている「招福殿」と、その横にある招き猫の奉納所には大勢の人が居て混雑していましたが😅、井伊家墓所にはあまり人が居ませんでした。
自分は、10/11(日)の読売新聞の「よみほっと」という記事を読んで、豪徳寺に井伊家の墓所があるということを知りました。
流石に大大名なだけあって墓所も広大です。
歴代藩主やその奥方達はみな笠塔婆の墓になっており、やはり各大名家ごとに墓石にも個性が出ています(例えば、中野の成願寺にある鍋島家の墓は五輪塔形式)。
勿論井伊直弼の墓もあり、お参りしましたが、周りの笠塔婆とほぼ同形であり、殆ど違いは見られませんでした。
また直弼の墓の後ろには、同じく桜田門外の変で死亡した彦根藩士8人の慰霊碑「桜田殉難八士之碑」や直弼の37回忌を記念して在京彦根青年会が造った石碑なども建っています。
この他、子供のお墓は観音菩薩や地蔵菩薩の舟形の場合もありましたが、庶民とは違って果たして大きく豪華なものでした。
更に江戸時代後期型の宝篋印塔も造立されており、外面にはこの塔に礼拝すればこれまでの罪科は消える旨の文章が刻まれています。
井伊家のような権門勢家でも、後生に恐れがあったということでしょう。
静かな雰囲気。
名前 |
彦根藩井伊家墓所 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.2 |
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井伊直弼と吉田松陰の墓が歩いて10分の近さ。
なんと言う歴史のいたずらか。