日本庭園を見学させて頂きました。
令和2年2月9日参拝御朱印あり本尊:聖観音菩薩宗派:真言宗大覚寺派元和八年(1622年)臨済宗妙心寺派の僧漢室が開基。
3世住職三源が他に去り無住となる。
明暦2年1656城内祇園寺(維新後廃寺。
あと素盛鳴神社となる)中興第4世法印快応が藩の許可を得て小堂を建立、遍照院と号してその末寺とし、祇園寺代々の墳墓の地を設ける。
境内には国指定史跡の高山彦九郎の墓所や昭和の庭園研究家 森薀が設計した庭園がある。
「高山彦九郎」の墓があります。
境内は、昔と比べると木々が減りました🤔。
十七ヵ寺が甍を並べ、終日(ひねもす)香の絶えることなき寺町の路地に歩を運び、左手最奥に四季折々に鮮やかな植栽が豊かな佇まいを身近かに感じさせている純日本式の庭園がある。
奥に長く続く庭園の総面積は4300平方メートル(約千三百坪)。
王朝風の佇まいを入れ、萩坪、山吹坪、稚松坪が展け、石組みに前栽をあしらった枯山水であり、中島を配した心字の池にかかる石橋は、高山彦九郎にゆかりのある京都三条の橋を模している。
この池に注ぐ遣水あたりの築山、背後の杜などにも北山杉を移植しているほか、京都より移築した茶室への延壇の静かな雰囲気に加え、茶室の犬走りの玉砂利敷きも、鞍馬山より貴船の赤石を運び入れ並べている。
茶室は一般にも開放利用されているようです。
庭園前の広場は、マイクロバス以下なら無料で駐車できます。
(2018/12/12)【現地案内板より転載】この庭園は昭和三十五年一月に月星化成株式会社より寄贈され、財団法人高山彦九郎史跡顕彰会が管理しているものです。
設計は奈良国立文化財研究所工学博士森蘊(オサム)の手によるもので、京都風をそのままに王朝風の佇まいを入れ、萩坪、山吹坪、稚松坪など石組みに前栽をあしらっての枯山水で一石一岩の姿を藤原時代の作庭記の内容や鳥獣戯画に描かれている動物の遊び戯れていている様になぞらえ、また中島を配した心字の池やこの池に注ぐあたりの築山、滝遣水加えて京都より移築しました茶室や、鞍馬の赤石、北山杉の植込みはこの庭園の話題です。
この茶室の名は庭園西側にあります、勤皇志士高山彦九郎の墓石に刻まれています、「松陰以白居士」の法名に因み、「以白庵」と名付けています。
寺町の一番奥、手入れはあまりされていませんが、立派な日本庭園と、茶室。
そして明治維新の魁なる人物である高山彦九郎の、質素である墓にに立派に掲げられた、日本国旗の存在感が素晴らしいです、
日本庭園を見学させて頂きました。
花の見ごろになると綺麗なんでしょうね。
もう一度訪れたいです。
御朱印を有難く頂きました。
元和8年1622臨済宗妙心寺派の僧漢室が開基。
3世住職三源が他に去り無住となる。
明暦2年1656城内祇園寺(維新後廃寺。
あと素盛鳴神社となる)中興第4世法印快応が藩の許可を得て小堂を建立、遍照院と号してその末寺とし、祇園寺代々の墳墓の地を設ける。
境内には高山彦九郎の墓所がある。
(門前の案内板より)歴史を感じさせる山門をくぐると、左手に地蔵堂。
ここには大きめの六地蔵塔が安置されている。
その先左手が本堂である。
本堂の正面あたりには地蔵菩薩像板碑(応永年間1394-1428頃の作)がある。
さらに奥に進むと高山彦九郎の墓地入口にたどり着く。
その奥の方には遍照院庭園があるようであるが、作者は見逃した。
広い境内全体が高木で覆われており、多数の石仏・石塔がみられる。
境内には地蔵菩薩彫像板碑が解説板とともに展示されている。
遍照院庭園(高山公園)が隣接。
山水を施した庭園(入場無料)である。
高山彦九郎胸像1938
幕末の偉人(高山彦九郎)に思いを馳せてゆっくり庭園を歩いてみたりと、落ち着けるところです。
高山彦九郎の墓がる。
美しい日本庭園も見ごたえアリ。
高山彦九郎の墓がる。
美しい日本庭園も見ごたえアリ。
名前 |
遍照院 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
0942-32-8794 |
住所 |
|
関連サイト |
https://welcome-kurume.com/spots/detail/0bd89e5f-c35c-4c98-99eb-c06321864c93 |
評価 |
4.3 |
境内も広く、住職様と家族も暖かい方です。