県道5号線(大牟田南関線)の通町1丁目交差点の北1...
大牟田市郊外の高台の大牟田熊野神社横に鎮座する三笠神社。
戦国時代、大友氏に使えていた?武将が九州制圧で押し寄せた島津軍を迎え撃った戦いのことも案内看板に書いていました。
君主に従い、かつ守り抜く武将の姿を思い描くだけでも、想像を絶する勇気と忠誠心があるものだと感慨深く感じました。
碑文では三池藩総鎮守の神社。
本社創建は江戸時代らしく、奥州伊達郡(現福島県)移封となった七代目三池藩主が創建したと書いていました。
明治以降、三池藩の廃藩から、現在地に遷移したとそうです。
三池地方の氏神のようなお宮。
武勇に纏わる話もあることから、武芸・武勇の神様として崇敬されていると思います。
参拝時は社務所が閉まっていたため、御朱印提供があるか分かりません。
高橋紹運公を祀ってある神社です。
地元民からは昔からご利益があると言われていて、社殿の建立は隣の大牟田熊野神社よりも古く、実はこちらの方がパワースポットと言われています。
梅の花の咲く時期はお奨めです。
2022年9月24日(土)午後参拝大牟田の神社巡り。
三笠神社と熊野神社の御朱印をいただきました。
どちらも熊野神社の社務所にて直書きでいただきました。
同じ敷地内に2社が鎮座しており、宮司さんも同じ方がされているそうです(^^)熊野神社の今月の御朱印は御神紋と菊の花がカラフルで華やか。
三笠神社の御神紋は『祇園守紋』でした。
境内には立派な木がたくさんあり、社務所裏手はちょっとした公園になっていました。
目の前に広い駐車場完備、境内にも駐車可能。
三笠神社の御祭神の一柱、高橋紹運(たかはしじょううん)は戦国時代~安土桃山時代の武将。
同じく御祭神の一柱、次男の立花直次。
全く知識が無く後日調べていたところ、特に長男の立花宗茂は歴史に名を残す武将だったようです。
【立花 宗茂(たちばな むねしげ)】安土桃山時代~江戸時代初期の武将、大名。
大友氏の一族で、重臣。
陸奥国棚倉藩主、筑後国柳河藩初代藩主。
関ヶ原の戦いで改易後、大名として復帰した武将は他にもいるが、旧領を回復した武将は宗茂ただ一人である。
浪人となった宗茂でしたが、かつては東西で並び立つと称された本多忠勝の推挙によって江戸城に召しだされ、御書院番頭(将軍の守護を行う役目)として取り立てられます。
その後、徳川秀忠の御伽衆として大名に復活。
その後大坂夏の陣で将軍・秀忠の参謀として参戦し、城兵の動きなどを次々と的中させたり、毛利勝永の兵を退けたりと大活躍。
それらの戦功をもって、柳川藩10万9200石の大名として復活を成し遂げた。
三笠神社は、県道5号線(大牟田南関線)の通町1丁目交差点の北100mほどに鎮座している神社です。
西鉄新栄町駅の北東1.7km程です。
東隣りには赤い社殿の熊野神社があります。
旧社格は県社です。
主祭神の高橋紹運公は戦国武将にて、大友氏の一族吉弘氏より出で、高橋の名蹟を継がれ筑前岩屋城・宝満城主として主家大友宗麟に忠節を誓い、筑前立花城主、戸次道雪と共に大友家を支え守り抜きました。
天正14年(1586年)、九州制圧をかけ北上する島津軍5万の大軍を迎え討った高橋紹運公の手勢は763名。
「一日で攻め落とす」と豪語する島津軍と十四日間にわたる戦国史上稀に見る激戦となりました。
(岩屋場の戦い)。
紹運公の人柄は『高橋記』に「文武に通じ徳智謀達し、諸人に深く忠賞も時宜に応じ私欲は無く、古今稀なる名将」と記され、洵に武士の亀鑑でした。
豊臣秀吉は「乱世に咲く華」と紹運公を称え、長男の立花宗茂に柳河藩を 次男も立花直次に三池藩一万八千石を与えました。
立花直次は武勇に優れ、文禄・慶長の役において兄を救出し、剣術に優れ、柳生宗矩の門弟となり「新陰治源流」を開祖しました。
紹運の妻は二男四女を産み温和な優しい人柄と家中より慕われました。
七代藩主の立花種周は、若年寄となり幕政に参与しましたが、文化2年(1805年)に奥州伊達郡下手渡村(福島県伊達市)移封となり、天保6年(1835年)祖先の義烈を顕彰すべく神祇伯に請いて三笠神社が創建されました。
明治維新により念願の三池復封となり、明治3年に東山(大牟田市今山)にご遷座され、明治16年の例祭煙火による火事により、明治29年に現在地に遷座されました。
一の鳥居は県道5号線沿いにあり、二の鳥居は明治5年の建立です。
御祭神は、高橋主膳ノ正鎮種(入道して高橋紹運と号す)・斎藤兵太夫鎮実の妹(紹運公の正室)・立花直次(紹運公の次男、高橋統増の名で知られる三池藩祖)です。
梅の満開の時期に参拝。
素晴らしかった。
三笠神社は、熊野神社と同じ敷地内にありました。
隣接している熊野神社の御朱印と二社頂きました。
御朱印の対応も丁寧で色々な話(貴重な)も伺えました。
こちらのご朱印は隣の熊野神社で一緒に頂けます。
ご祭神は、高橋紹運と紹運の正室と立花直次の三柱です。
社名の三笠は高橋紹運が岩屋城を居城としていた当時、御笠郡(みかさぐん)を治めていたことからついたそうです。
創建は、三池藩7代藩主立花種周で、伊達下手渡に移封されたおり下手渡(現在の福島県)につくられたのが始まりです。
後を継いだ立花種恭が三池に帰ってくると、この三笠神社もこの地に遷宮されました。
本殿の裏側に小さな祠が沢山ありました。
「水神」「恵毘須大神」「大國主大神」「祇園社」と様々な神様が鎮座されていました。
岩屋城で763名で島津5万と戦い抜き壮絶に討ち死にした高橋紹運は、この地で神になっていました。
大友宗麟の家臣であり、吉弘鑑理の子で、初代筑後柳川藩主立花宗茂の父である安土桃山時代から戦国時代に活躍した名武将の高橋招運や、立花家を御神体としてお祀りしています。
島津軍5万人の軍勢を居城にて、わずか、700の兵で撃墜、玉砕した伝説を持つ武将。
ゲーム信長の野望にも出てくる存在である。
また、慶長文禄の役で、立花と小早川軍は、朝鮮軍4万人が進行するなか、反転進軍し「釣り野伏せ戦法」朝鮮軍4万人を撃墜している。
立花家が、大間(大牟田)を納めていたのは、江戸時代末期まで続いた。
三笠神社は、1835(天保6)年閏7月5日に伊達郡下手渡(現・福島県月舘町)に創建された神社だそうです。
高橋紹運とその側室斉藤花岳、そして立花直次の三柱が祀られているそうです。
三笠神社の名の由来は、紹運が筑前岩屋城(太宰府市)に居住し、三笠郡一帯を所領としていたため名付けられたそうです。
1870年8月に、大牟田市大字今山東山に遷座し、1876年には県社に昇格するも、1883年9月には火災によって社殿は焼失しましたが、それで、1896年に鳥塚町熊野神社の境内の一部を割いて新しい神殿を創建されたようです。
1806(文化3)年、6代藩主種周が幕閣の紛争の中で下手渡に移封された際に、先祖の霊を祭祀。
移封後の財政難で30年後にようやく下手渡に三笠神社が創建です。
その後、1850(嘉永3)年になると下手渡に移封された三池立花氏に対し、三池五カ村が返還され、後を継いだ立花種恭も帰ってきました。
そして三池陣屋の再建、陣屋眼鏡橋の構想、三笠神社の創建となり、1876(明治9)年には、旧家臣の嘆願によって県社に昇格したのだそうです。
今回、3月に訪れ梅の花が開花し目白が飛び交う季節でした。
戦国時代の三池藩の武将の方を祀ってあるそうです。
御朱印は、熊野神社の社務所でいただきました。
同じ敷地内の すぐ隣に熊野神社があります☆御守りやおみくじが安価です。
梅が見事な神社。
平成28年12月2日参拝御朱印あり(隣の熊野神社社務所で頂けます)
大牟田の街の中心部に位置し周りを閑静な住宅地に囲まれた所に、三池藩の藩祖立花直次、その父高橋紹運 紹運の正室が祀られています。
三笠神社の左手への御神木とそれぞれの方々~素晴らしいです。
名前 |
三池藩総鎮守 三笠神社 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0944-53-0606 |
住所 |
|
評価 |
4.3 |
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大牟田熊野神社の赤く目立つ社殿とは対照的に落ち着いた雰囲気のある神社でした。