日本橋川の様子ですが一日に千両の取引があるといわれ...
現在は、首都高速道路の柱ばかりが目につく、日本橋川の様子ですが一日に千両の取引があるといわれた江戸初期から大正まで日本橋に魚市場がありました。
当時、最も活気のある場所の一つだった魚河岸は、大正12年(1923)の関東大震災をきっかけに築地市場へと移転しました。
日本橋での300年余りの歴史に幕を下ろしましたが、周辺には今も魚河岸の名残を感じさせる老舗店が見られます。
そして現在は、築地市場へと移転した市場も東京都卸売市場へと発展しました。
当時の賑わいを想像しながら、解説を読む。
江戸時代から関東大震災までの300年、ここが魚介の一大魚河岸だったとは。
ここから築地へ。
そして今は豊洲。
2021年11月。
今では高速道路の陰になってしまいましたが、在りし日は運河として魚河岸があったようです。
日本橋魚河岸跡。
江戸の発展とともに魚市場は繁盛。
魚市場は朝千両、芝居小屋は昼千両、吉原遊廓は夜千両と言われた。
嘗て日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いにあった魚河岸。
江戸時代から約300年にわたり江戸の食を支えてきたが、大正12(1923)年の関東大震災では壊滅的な被害を受けて築地へ移転した。
歴史を伝える魚河岸跡にも拘らず腰掛けるベンチもないのは浮浪者対策?
広重 雪中日本橋の浮世絵(浮世絵)日本橋は江戸時代より日本の中心地橋の北詰に日本橋の魚市場の発祥の地碑が建っている。
(写真)地碑の文言が古くて読みにくいので後で調べてみたら・・日本橋魚市場発祥の地本船町小田原町安針町等の間悉く鮮魚の肆なり, 遠近の浦々より海陸のけぢめもなく鮮魚をこゝへ運送して, 日夜に市を立て甚賑へりと江戸名所図会にのこれる 日本橋の魚市魚河岸のありしはこのあたりなり, 旧記によればその濫觴は遠く天正年間, 徳川家康の関東入国と共に, 摂津の国西成郡佃大和田両村の漁夫三十余名, 江戸にうつり住み, 幕府の膳所に供するの目的に漁業営みしに出づ, その後 慶長のころほひ幕府に納めし残余の品を以て, これを一般に販売するに至り, 漁るもの商ふものゝ別おのづからこゝに生じ, 市場の形態漸く整ふ, さらに天和貞享とすゝみて諸国各産地との取引ひろくひらけ, 従ってその入荷量の膨張驚くべきものあり, かくしてやがて 明治維新の変革に堪へ, 大正十二年関東大震災の後を受けて, 京橋築地に移転せざるのやむなきにいたるまで, その間じつに三百余年, 魚河岸は江戸及び東京に於ける屈指の問屋街としてまた江戸任侠精神発祥の地として, よく全国的の羨望信頼を克ちえつゝ目もあやなる繁栄をほしいまゝにするをえたり, すなはちこゝにこの碑を建てる所以のもの, われらいたづらに去りゆける夢を追ふにあらず, ひとへに以てわれらの祖先のうちたてたる文化をながく記念せんとするに外ならざるなり。
東京に江戸のまことのしぐれかな 昭和二十九年三月,旧日本橋市場関係者一同に代わりて 日本芸術院会員 久保田万太郎 撰 日本芸術院会員 豊道慶中 書江戸初期から300年に渡り江戸市民の食卓を賄ってきた魚市場も大正時代の関東大震災の被害を受けて築地に移転したが日本の文化として記憶に残すためここに石碑を建てたとのことのようだ。
広場というほどの広さではないが隅に窮屈そうに「乙姫広場」の標示があった。
「おとひめひろば」と読むと像の人物は竜宮城の乙姫ではないだろうか。
象の両側から魚の頭がのぞいている。
どのような人物が発案して、作製したのだろうか。
碑と当時の画像を載せた説明板のみ。
魚市場の面影はありません。
浮世絵の東海道五十三次の日本橋の絵を見るとわかるが、大名行列の前を横切ると❬切り捨て御免❭が当たり前だった時代なのに魚屋の棒手振り(ぼてふり又は、ぼてうりと言った)が横切る姿が描かれています。
冷凍技術が無い時代ということと、大名家もこの魚を買っていたので、魚屋だけが許されていたんだそうです。
そのため、魚屋は威勢がよかったらしい。
日本橋の橋詰の室町側東には日本橋に魚市場があったことを示す「日本橋魚市場発祥の地」と刻まれた石碑が建てられています。
石碑の足元には「乙姫広場」と刻まれた石板が置かれ、石碑の脇には、乙姫なのでしょうか、女性の坐像があります。
その脇に数段の階段があり、上ると日本橋を遠目に眺めることができる6畳間ほどのスペースがあります。
花のハンギングバスケットが吊るされてちょっとした憩いの公園です。
現在豊洲にある水産市場は、長く築地にあり親しまれてきましたが江戸時代から魚の市といえば日本橋でした。
日本橋から築地に移ったのは関東大震災がきっかけだったということで、日本橋の街から魚の市場があった様子は全く見えませんが、この石碑だけがその歴史を示しています。
注:妖怪ババではなく乙姫です。
はっきり言って魚市場発祥など、この石像の前ではさしたる関心事になりえない。
江戸時代から関東大震災まで日本橋川を利用した魚河岸があった所。
震災後、築地に移転。
現在は碑が立っているだけ。
日本橋の魚河岸ってこのなのか!高速道路は地下にして欲しい。
地下鉄「三越前」駅B6出口を出ると、直ぐ左手に「乙姫広場」があります。
そこは、五街道の起点となった「日本橋」のたもとで、乙姫広場には「日本橋魚市場発祥の地」と刻まれた記念碑と案内板、そして、乙姫の像が置かれ、日本橋魚河岸の発祥から移転に至るまでの三百年余りの歴史を伝えています。
日本橋魚河岸は大正12年(1923)の関東大震災で壊滅的な被害を受け、築地へ移転となったことで、300年余りの歴史に幕を下ろすことになりました。
日本橋を覆っている首都高速道路は地下化計画により高架が撤去されるようなので、それを機にこの碑も今よりは目立つようになるでしょうか。
意外と立派な碑が建ってました。
関東大震災以前まで、ここに魚河岸があった。
震災後、築地に移転。
日本橋魚河岸跡です。
しっかりと、区画を取って、知らされています。
往来が盛んであった当時が、偲ばれます。
乙女広場にあります。
築地に移転する前はココに魚河岸がありました。
ベリーグッド。
「乙姫の広場」桜1本、日本橋魚市場発祥の地の碑、乙姫像、高台に藤棚、地下鉄入口、日本橋際公衆便所。
1590年天正18年徳川家康が江戸に入府した後、摂津国西成郡佃村、現在の大阪市西淀川区の漁師たち30数名が江戸に出て佃島を造成し、江戸近辺で漁業を営む許しを得て、徳川家に魚介類を献上した。
当時の海では魚介類がおもしろいほどよくとれたために上納してもあまりが出る。
そこで漁師たちは、幕府の許しを得たうえで、水運の便の良い日本橋の河岸で板船とも呼ばれる販売用の板の上に魚介類を並べて、一般に売り始めた。
これが日本橋魚河岸の起源である。
魚河岸は日本橋と江戸橋の間の北岸にあり、魚を積んだ船は日本橋川を遡って川岸に陸揚げした。
日本橋魚河岸は早朝から多くの買い物客で賑わい、朝の魚河岸は、昼の芝居小屋「堺町(人形町)の中村座、葺屋町(人形町)の市村座、木挽町(東銀座)の森田座」、夜の吉原と並んで、「一日で千両がおちるところ」とまでいわれるほど繁盛した。
1911年現日本橋の石造2連のアーチ橋が完成した。
装飾を担当したのは建築家の妻木頼黄つまきよりなかです。
1923年大正12年9月1日関東大震災後に現在の築地への移転が決定され、日本橋魚河岸300年の歴史に幕がおろされた。
観光客の方々で賑わっていました。
関東大震災で築地に移転する前はここが魚河岸の中心だったそうです。
緑の多い、都心の水辺の小さなオアシスです。
見晴台からの日本橋と船着き場の眺めもgood!シンボル像は乙姫様です。
記念碑の裏に男女別の公衆トイレがあります(多目的トイレも有)。
名前 |
日本橋魚河岸跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.7 |
ここに魚河岸があったんですね。
知らなかったです😅こういう史跡があるといい勉強になりますね。