城下町は現在の柳川市の元となりました。
柳河藩立花家の居城跡です。
柳川城は筑後南部を支配していた蒲池氏の支城として築かれます。
蒲池氏滅亡後は龍造寺氏及び鍋島氏が支配することになり、敵対していた豊前・豊後を支配していた大友氏と交戦した際に柳川城を攻めた武将が立花宗茂の実父・高橋紹運と義父・立花道雪です。
現在は柳城中学の敷地の一部にあり天守台、石垣、堀を残すのみになっています。
真田戦記柳川城跡柳川城は、蒲池治久により築城された城郭で、城下町は現在の柳川市の元となりました。
平城で外堀に囲まれた御家中の中央よりやや南西よりに本丸と二の丸が東西に並んでおり、内堀を隔てた三の丸が本丸・二の丸を取り囲んでおり、その外側に武家集住地域が開けていました。
蒲池鎮漣が城主の時、龍造寺隆信や鍋島直茂が2万の兵で柳川城を攻めたが落城させることができませんでした。
秀吉の九州征伐後は、立花宗茂が筑後南部13万石の城主となり秀吉に仕えました。
1600年の関ヶ原の戦いの際は、鍋島直茂らがここを攻めました。
立花宗茂は激戦の後、黒田如水、加藤清正らの取り成しで降伏開城しています。
西軍側だった宗茂は領地を失い田中吉政が筑後一国32万5千石を許され柳川城主となる。
吉政は筑後の府に相応しく城地を拡張した。
しかし田中氏が跡目がおらず改易になると立花宗茂が筑後32万5千石のうち10万石だけ与えられ再度柳川城主となり、以降、柳川藩主の立花氏の城となりました。
柳川城跡。
1558年に建てられた。
城主、蒲池鑑盛。
扉の開閉により城内の水量が変えられた。
1581年、城主一族は佐賀の地で滅ぼされる。
1587年、秀吉の命により、立花氏が九州平定の功績によって置かれる。
1600年 関ヶ原合戦において、西軍に味方したため、13年間で解任。
明治維新まで250年間、立花氏の居城だった。
1872年、火事により一夜で消失。
現在は柳城中の一部である。
立花宗茂の本城、歴史が好きな人には興味深い場所だと思います。
明治に入っても天守が存在していたそうです。
立花家ゆかりの立花家資料館(御花)に行く際に寄られては。
一周回ってみました。
、5㎞以上ありますね。
舟を漕ぐ人の舵取りと話心地よいですね。
案内のプロですね。
船堂さん、それぞれの方で笑わせるところ、歌うところ説明どころ良さがそれぞれあるんだろうなぁと、歩道を歩いてても感じました。
授業中の撮影はご遠慮くださいとのことです。
Please do not shoot during class.
柳川城は水城となり、周りには水路が張り巡られています。
なお、本丸跡には中学校と高校の間の道から歩いて行くことをが出来ます。
また、駐車場は御花(柳川藩主立花邸)近くの1日500円の有料駐車場を利用しました。
初めて行きましたが風情があって良かったです。
天気が良ければ舟に乗ったらさらに風情を感じると思います。
通称「へそくり山」。
名前の由来はよくわからないが、立花の埋蔵金(へそくり)があるという説も…戦前からへそくり山と呼ばれていた。
市内では、これにあやかった「へそくり饅頭」が売られている。
戦時中は、実業学校柳川商業(昭和16年開校時は御花の一画を借りていた。
)の米軍機監視のための物見櫓が立てられていて、長崎原爆のきのこ雲が見えたそうだ。
散歩には良いですね。
柳川の水郷巡りはあまりにも有名なので柳川城も百名城と思いきやまったく登録されていない。
不思議に思っていましたが現地に来て納得。
城址はその遺構をほとんど留めておらず敷地は学校として利用されています。
わずかに天守台の石垣が確認できるくらいですが、登ることもままならず。
城巡りとしては面白みにかけます。
1872年2月26日城郭は火災で櫓1基、土蔵、厩、城門3棟を残して焼失した。
かつての城跡は柳川高等学校と柳城中学校のキャンパスとなった。
遺構は天守台、石垣、堀が柳川城本丸跡として残っている。
天守台跡は柳城中学校の運動場の一角にある。
難攻不落の水城として有名、清流の矢部川から引き入れた水郷が張り巡らされている。
堀が水路として残る。
名前 |
柳川城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.5 |
近くの観光駐車場に500円払って係のおじさんに柳川城見に来たって言うと、えっ?お堀じゃ無くて?って言われる感じの城跡です。
中学校の敷地に同化しちゃってますので不審者通報されないかドキドキです。
10分で見終わったのでタイムズに停めた方が安かったなと。