京都の清水寺を模して建てられたそうです。
徳川幕府のブレーンとも言われた天海大僧正が、1631年に東叡山寛永寺境内に建立、寛永寺は江戸城の鬼門を守る為に建て、清水観音堂は京都の清水寺に見立てたお堂だと言われ、江戸時代後期には庶民の行楽地として人気だったとか、浮世絵師歌川広重の「名所江戸百景」には「月の松」として風景が残り、不忍池の弁天堂が収まるように、松の幹を細工する職人の技も感心ですが、懸け造りの舞台から「月の松」を通した眺めは面白く、「月の松」との呼び方も粋ですね。
お祀りする秘仏「千手観世音菩薩」は、生きるもの全てに慈悲の手を差し伸べる仏様、懸け造りのお手本とした京都清水寺から移され400年余り、今も昔も御利益を求めお参りします、お参り後は御本尊の千手観音の御朱印(書置き)を頂戴しました。
寛永寺を開山した天海が京都の清水寺になぞらえて建立した清水観音堂。
不忍池を臨む清水の舞台の前には、歌川広重の浮世絵にも描かれている月の松が配されています。
上野恩賜公園の真ん中辺り、古くからの名所であろう清水観音堂。
いかにも下町の風情溢れる雰囲気で、とても味があります。
本堂前の舞台からはこれも昔からの名所のような、幹が円を描いた松がすっくと佇んでいます。
桜の見頃の頃はここも賑やかになるのかな。
清水観音堂は二代将軍徳川秀忠公から寄進された上野の山に、平安京と比叡山の関係にならって『東叡山寛永寺』を天海大僧正が開きました。
これは比叡山が京都御所の鬼門を守る思想をそのまま江戸に導入して、江戸城の鬼門の守りとしました。
京都の有名寺院になぞられた堂舎を次々と建立しましたが、清水観音堂は京都の清水寺を見立てたお堂です。
ご本尊は京都清水寺から遷座された【千住観世音菩薩】で、あらゆる世界の生きとし生けるものの全てに慈悲の手を差し伸べる姿だそうです。
京都の清水寺の舞台を模したコンパクトな舞台があり、そこから歌川広重の浮世絵【名所江戸百景】に描かれた『月の松』も2012年に復元されたので、舞台から『月の松』越しに不忍池 弁天堂が覗けます。
上野公園内にある寛永寺の観音堂。
千手観音様がお祀りされています。
京都の清水の舞台をモデルに造られたそうです。
お堂は江戸時代前期の貴重な建築物として重要文化財に指定されています、その舞台からは不忍池と弁天堂を望むことができます。
円形に形作られた月の松は浮世絵に描かれたこともあり、風流です。
2年ぶりに伺いましたが、清水坂下から見る月の松は、まわりの木が伸びたためか以前よりは目立たなくなってしまいましたが、やはり色鮮やかな観音堂をバックに見る月の松は素敵でした。
観音堂の舞台から見る月の松の先には不忍池辯天堂があり、舞台から見る月の松もまた素敵です。
月の松は歌川広重の浮世絵に描かれています。
階段や坂があるので、少し大変な方もいらっしゃると思いますが、素敵な景色も見る事が出来ます。
今日は平日だったからか、人も少なくゆっくり参拝する出来ました。
御朱印は書き置きで頂きました。
緑に囲まれており、本堂は歴史を感じます。
10時頃参拝。
人も少なくゆっくり参拝できた。
御朱印は本堂に入って左側に受付があります。
¥500納めます。
書き込みにあった受付のおばさまのおしゃべりがすごいと見かけたのですが、確かにかなりのお話し具合。
笑でも、その会話から、昨日はほんのちょっとだった桜が今日一気に咲いたということが分かりちょっと得した気分になりました。
笑当たり前ですが、本堂の中は撮影禁止です。
しかし、公園の桜が本当綺麗だった。
上野公園にある東叡山寛永寺のお堂です。
「しみず」ではなく「きよみずかんのんどう」と呼びます。
寛永8(1631)年に天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正(1536~1643)によって建立されました。
京都の清水寺の舞台造りを模して造られたそうです。
平日の日中に参拝しましたが、法要の日だったので混雑していました。
御朱印をいただきましたが、素晴らしいものでした。
今までにいただいた数々の御朱印の中でも特に気に入っています。
ちなみにネットの情報だと、上野大仏とパゴダ薬師の御朱印はごちらの社務所でいただけると書いてありましたが違いました。
(2020.1現在)
ここには月の松があり江戸時代の江戸観光案内「歌川広重の江戸名所百景」にも選ばれており、江戸庶民の観光地として大変賑わっていた(浮世絵)。
観音堂と二代目「月の松」(スプレー画)江戸初期に天海大僧正は上野の山を比叡山とみたて清水寺を模してこの清水観音堂を建てました。
その後、観音堂の舞台から琵琶湖を模した不忍池を眺める位置に満月の姿をした松を配置し江戸庶民から喝さいをあびました。
しかしこの月の松も明治初期に東京を襲った台風により倒れ消滅の憂き目にあいました。
その後、復活の運動がおこり、2012年12月に新たに二代目「月の松」が復活しましたが、たいした話題にもならず、人気の点では初代にはるか及ばないようです。
千手観音が有名です。
観音様は、音を観る、と書くように、助けて!という人の口の形を観て、助けてくださるそうです。
助けて!という声を聞いてからでは遅いからですね。
音より光の方が速いからです。
しかも、手が千本もあるので、たくさんの人達を救ってくださると信じられています。
こちらの千手観音、弁天堂の弁天様、大黒様、五條天神社の神様に一気にお詣りしてみては如何でしょうか。
こちらのお寺は、拝観料はありません。
ただし、千手観音様にお詣りする場所での写真撮影は禁止となっています。
滞在時間は5分あれば拝観できます。
基本大変良いとこです。
が年配の女性が振り袖を着ていたり、なんか毎日成人式みたいな光景。
参道みやげやは、台湾みたいな感じで肉まんが小篭包にみえます。
そうだ、新しい京都に行こうと考えれば楽しいでしょう。
博物館や美術館に行くために上野公園内のいつも通っている道にある日月の松のキャッチコピーが出ていました。
それまでこのお寺さんの存在を知らなかったのです。
歌川広重が江戸名所百選としてこの寺の月の松を浮世絵に残しています。
そもそも清水観音堂は京都の清水寺を模して造られ、ご本尊も招請しました。
舞台も造られ、不忍池の池を眺められる設計になっています。
江戸っ子はこの舞台に松の枝を細工した月の松と呼ばれる装置を造ったのです。
江戸っ子はこれを「粋」と呼ぶのでしょう。
こちらでは人形供養もされていました。
ここから月の松を見るべし。
美しい。
江戸時代にタイムスリップできますよ。
京都の清水寺を?う〜んチト違うじゃない^_^清水観音堂は観音堂で素晴らしいです^_^月の松は良いですね、中々出来る代物では有りませんよ、此の松で何代目かは判りませんが、良く出来た松です。
松の輪から見た不忍池も素晴らしいです。
上野(寛永寺)の「上方テーマパーク化」の一貫で、京都の清水寺の江戸バージョンとして寛永8(1631)年に徳川家光が建立。
家光は同年にその本家・清水寺本堂も再建している。
本尊も清水寺にあった平安時代の、源信(恵心僧都)が自ら彫ったと伝わる千手観音を迎えたもの。
秘仏(毎年2月の初午の日のみ開張)なので詳しい文化財調査はされていないが、ぱっと見た限りでは国宝か少なくとも重文クラス。
元禄時代に不忍池(やはり上方テーマパークの一貫で、琵琶湖の見立て)を見下ろす現在の位置に移転。
なお東叡山寛永寺の中心伽藍は明治維新の時に新政府軍に焼き討ちされてほぼ全焼しており、その後東京大空襲でも焼けているので、現在残っているのがこのお堂のみ(国の重要文化財)。
祝日とあって沢山の人だかりでした。
御朱印を頂く方もかなり並んでました。
書き手の方は二人いましたが、上野大仏の御朱印も含めて3種頂く方がいるため、時間がかかるのだと思いました。
私も3種頂きました。
観音様も御堂も格式高いんだな~って感じてたんですが・・・関係者の態度が最悪・・・。
自分は二度と行かないが、本当に残念な場所に来ちゃった・・・という嫌な思い出。
建物や眺めはとても良いのですが…お寺の方が感じ悪くとても嫌な思いをしました。
清水観音堂(重要文化財)は、寛永八年に天台宗東叡山寛永寺の開山、 慈眼大師天海大僧正によって創建されました。
こちらで、清水観音堂(秘仏千手観世音菩薩)、パゴダ薬師堂(薬師如来)、上野大仏殿(釈迦如来)の3箇所の御朱印をいただきました。
寛永寺清水観音堂は、不忍池淵高台にあります。
池を一望でき、一時の静寂を味わえるのですが、何故か外国系が多く、賑やかでした。
3回目の参拝ですが、ちょっと雰囲気が変わってしまいました。
京都の清水寺を模して建てられたそうです。
舞台からは不忍池が見下ろせます!舞台のちょうど真ん中には、歌川広重の浮世絵「名所江戸百景」に描かれた「月の松」のモデルになったと言われる松があります。
中には彰義隊上野戦争図の絵がありました。
上野戦争が激戦だったことが分かります。
名前 |
清水観音堂 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
03-3821-4749 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.2 |
東叡山寛永寺の清水観音堂は京都の清水寺を模して建立したようですが、京都の清水寺とは比べようもありません。
ただ上野の山は幕末の上野戦争の舞台で寛永寺の境内の建物も焼失しまったようで、その時に残った貴重な建物です。
清水観音堂からは不忍池が望めます。