近所のお婆さんに案内してもらいました。
佐々成政城址 石碑(佐々成政生誕地) / / .
名古屋市西区にある光通寺の墓地奥に、佐々成政城跡の石碑がひっそりと建っている。
織田信長に仕え越中富山城主になった佐々成政の生誕地である比良城は、天文年間初め頃に、成政の父である佐々伊豆守成宗が築城しました。
成政は1575年(天正3年)に柴田勝家、前田利家らと共に北陸へ移動。
越前府中を与えられ、越前小丸城主となりました。
比良城は、その時に廃城となりました。
遺構はまったく無く、石碑もお墓に同化して中々気付かないと思います。
名古屋市教育委員会の駒札がお寺の山門横に建てられていますが、こちらもひっそりと建てられていますから、分かり辛いかも知れないですね。
Googleマップのナビを使って行くことをおすすめします。
近所のお婆さんに案内してもらいました。
名前 |
佐々成政城址 石碑(佐々成政生誕地) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.6 |
成政は武勇の士を好み召し抱えに熱心であった。
召し抱えの際に5000石の知行を約束しては6000石や7000石の知行を与えることもあった。
そのため、成政のもとに武勇の士が馳せ参じた『名将言行録』。
天正2年正月、織田信長は浅井久政・長政父子と朝倉義景、3人の髑髏の薄濃を家臣に披露し酒肴とするが、成政は宴終了後、信長の前に出て、その行為を『後漢書』をひきつつたしなめ、信長もその批判を喜んで聞き入れたという『信長記』。
但し、この逸話は『信長記』作者の小瀬甫庵による創作で史実ではないとされている。
内面を見つめなおせといわんばかりの痛烈な批判を末席の者から浴び、親しく政談にまで及ぶ信長の姿は、甫庵独特の道徳訓話によく見られる描き方である。
天正18年(1590年)の小田原征伐で、蒲生氏郷が「金の三階菅笠」の馬印の使用許可を秀吉に願い出たところ、秀吉は「三階菅笠は武勇で聞こえた佐々成政が使用した馬標なので、たやすくは許可することはできない。
」と氏郷に告げた。
これを聞いた氏郷は小田原で激戦を繰り広げた。
そこで秀吉も氏郷が馬標の掲げることを許したという逸話が残る『常山紀談』。
常願寺川中流の馬瀬口一帯がしばしば決壊し、富山城下に災害をもたらした。
成政は天正8年(1580年)、人海工法によって巨石を集め、馬瀬口上流に底辺40メートル、長さ150メートルに及ぶかまぼこ型の霞堤を築いた。
富山市西ノ番の正源寺は、成政をはじめ歴代藩主が水難除けの祈願をした寺と伝わる。
家紋は「棕櫚」であるものの、軍旗には佐々木氏一族の定紋である「四つ目結(隅立て四つ目)」を使用していたという。
上新川郡大山町の鍬崎山に埋蔵金伝説が伝えられている。
天正13年、成政は秀吉軍の攻撃を受ける直前、黄金100万両を埋めたという。
麓の集落には、「朝日さす夕日輝く鍬崎に 七つむすび七むすび 黄金いっぱい光り輝く」という里歌が伝わっている。
行き違い等々の切はご容赦下さいませ。
本所亀沢町6代末孫。