こじんまりとした感じの城郭です。
熊本県の 八代市朝のジョギングに来ました。
歴史を感じます。
散歩にいいですね!
大きな天守台に整備されてる石垣や堀は当時を想像すると素晴らしい^_^に,しても続日本100名城に選定されたには寂しい感じがします遠方から観に行くと物足りなさを否めませんね(_ _;八代市にとっての城の価値感を考えさせられます良い城なのに...
平日の夕方に来ました。
歴史を感じます。
散歩にいいですね!
続日本100名城安土桃山時代、肥後半国を与えられた小西行長が家臣小西行重に命じ麦島に城を築き(麦島城)、一国一城令が発布された後も特例として残されていましたが、大地震に遭い倒壊。
幕府の許可を得て1620年に松江の地に新しく築城されたのが今ある八代城(松江城)です。
麦島城と室町時代~戦国時代に利用されていた古麓城と合わせて「八代城跡群」として国指定史跡になっています。
細川忠興の隠居城として使われ、その後は筆頭家老の松井家が城代として存続しました。
遺構は本丸と内堀を残すのみですが堀や石垣は綺麗な形で残っています。
江戸時代、一国一城令の下でも熊本城と共に一国二城としてとして存在しました。
明治になり廃城となりました。
敷地は八代宮となり当時の建物は存在していませんが、石垣や櫓の台は残っています。
廊下橋門跡、高麗門跡、磨櫓跡、頬当御門跡、埋み門跡、欄干橋・擬宝珠(元和8年)、大天守台跡・天皇陛下御展望之趾碑、小天守台跡、九間櫓跡、月見櫓台跡、三階櫓台跡、唐人櫓跡、舞台脇の櫓(横櫓)跡、宝形櫓跡、等 説明板にはくまモンがついています。
こじんまりとした感じの城郭です。
明治の廃城令で廃城となったそうで、石垣はしっかり残っていて上に登ることが出来ます。
堀には鯉が泳いでました。
平日の午前中だったせいか人もそんなに居なくてのんびり観れました。
石垣が立派で、殆どの石垣の上に登ることが出来る数少ない城跡だと思います。
こころ旅2018年春の旅、お手紙を読み、出発したところ。
宿泊したホテルからも近く、朝のいい散歩になりました。
中にある八代宮の夫婦松は潜るといいそうです。
かつて5重の天守があっただけあって、なかなか立派な造りだ。
報道されていなくてもやはり地震の被害は受けているんだなと考えさせられる一城。
肝心な崩壊した石垣の写真を見失ってしまった。
海外の観光客が残したゴミが酷い。
ゴミのマナーを日本人として教えたい。
石垣が素晴らしいです。
街中にあり、春には桜の名所で花見をするには最高な場所です。
表側はとてもきれいにしてあるが、裏のほうはゴミだらけで残念。
跡地なので、お城を期待している方は来てもあんまりピンと来ない方が多いかも。
ただ、石垣などは残っており、雰囲気は味えました。
賽銭やおみくじなどもあり、気持ちを整える事が出来ました!
八代城跡群(古麓城・麦島城・八代城)の一つとして国指定史跡となっていHPより元和5年(1619)の地震により麦島城が崩壊したため、熊本城主加藤忠広が、幕府の許可を得て加藤正方に命じ、同6年から8年にかけて球磨川河口北側の低地にある松江村に築城した城。
寛永9年(1632)加藤氏の改易により熊本城主となった細川忠利の父忠興(三斎)が入城して北の丸を居所として本丸に四男立孝を居住させる。
正保2年(1645)閏5月に立孝(立允)が、続いて12月に忠興が没したため、家老松井(長岡)興長を八代城守衛とし、以後松井氏が在城。
実質は城主で大名に準じる扱いを幕府から受けた。
寛文12年(1672)落雷により天守、やぐら、長塀を焼失。
さらに寛政9年(1797)落雷により本丸大書院、三階やぐら等を焼失。
大書院は再建されるが、天守、やぐらは再建されなかった。
名前 |
八代城跡公園 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
0965-33-4123 |
住所 |
|
営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
3.9 |
城跡には神社が。
まったりと城壁ながめながら十分程散策させてもらいました。
駐車場がすこし分かりづらいかな。