池の色があまり綺麗ではありません。
諫早駅からは少し離れている。
この高城より眼鏡橋目当てに来る人の方が多そうだ。
小高い山に城を作ってある。
今でも石段は中々整備されているので、北からでも南側からでも最初は手すり付きの階段を登る。
その上にも狭いながらも虎口と本丸もあり、そこからは諫早の東側が望める。
本丸には神社も建立されている。
池の色があまり綺麗ではありません。
前日雨が結構降ったので仕方がないのですが。
菖蒲が咲いていました‼️
人が少なく私は好きでした。
頂上の大楠圧巻でした。
諫早城とも呼ばれます。
こちらは西郷尚善によって築かれた城です。
こちらを居城として維持していたのは諫早氏ですが、5代・茂門のときに財政難によって城が維持できなくなり、東麓に諫早陣屋を構え廃城となっています。
あまり知られてないのはこういった背景もあるのでしょう。
現在、城址は諌早公園として整備されており、1960年(昭和35年)には、本明川に架けられていた眼鏡橋が園内の池に移築されています。
見る場所は少ないので体力を使うお散歩感覚で行かれてください。
なお、こちらを見学する際には歩きやすい格好で行かれることをオススメします。
ヒールはやめましょう。
石段があまり整備されていないので、気をつけないと足を挫いてしまいます。
運動不足の方は結構足にきますよ。
案内板があったのはいいが、遺構が分かりにくい。
高城(諫早城)は、歴史的には伊佐早城とも呼ばれ、別名亀城とも呼ばれました。
諫早には南北朝期に伊佐早氏がいましたが、戦国期の文明10年(1478年)に、宇木城(諫早市有喜町)に拠る西郷石見守尚善が滅ぼしてこの地に進出しました。
この西郷氏の先祖は肥後菊池氏の分流といわれ、島原半島北部の杉峰城から宇木城に移ったものとされています。
高城を築き、有馬氏(日野江城)の後援を得て近隣に武威を示した尚善は大永3年(1523年)には深堀氏(深堀陣屋)と協力関係となり、深堀善時の烏帽子親となっています。
また、水路、水門を造り、領内開発にもその力を注いでいます。
しかし、尚善に男子なく有馬晴純の弟純久を養子に迎えて諫早西郷の二代目としました。
永禄五年(1562年)、純久の後を継いだ嫡男純堯は有馬軍の一翼を担って龍造寺攻めに出陣しました。
しかし有馬方は丹坂の戦いで敗北しました。
純堯はこの後、大村氏との抗争に明け暮れることとなる。
永禄8年(1565年)、純堯は弟純賢に深堀氏を継がせて密接な関係を築き、大村氏との攻防を激化させています。
天正5年(1577年)、力を増大させつつあった龍造寺隆信が諫早に迫りました。
純堯は有馬氏に救援を求めましたが、有馬配下の諸氏が龍造寺方に付くなどしたために援軍を得られず、弟深堀純賢の仲介で龍造寺氏と和睦して危機を乗り切りました。
この年、純堯は隠居して信尚に家督を継がせました。
天正12年(1584年)、衰退の危機にあった有馬氏は島津氏と結んで龍造寺氏を沖田畷に破り、隆信を敗死させました。
龍造寺方はこの敗戦で家中の鍋島氏が主家にとって代わることになりました。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉の島津征伐で、九州所在の諸将はこぞって秀吉のもとに参陣しましたが、西郷信尚はこれに応じませんでした。
そのために所領を没収されて龍造寺家晴に与えられることになりました。
城受け取りのために迫った龍造寺軍に対して信尚は抗戦したものの敵わず、城を脱して落去しました。
諫早西郷氏の終焉です。
この年、信尚の叔父で宇木城主の西郷純門と天祐寺(初代尚善創建)泰雲和尚ら諫早西郷の残党が決起して高城奪回を試みましたが失敗に終わりました。
以後、諫早の地は龍造寺家晴の治めるところとなり、慶長16年(1611年)二代直孝のときに姓を諫早に改め、鍋島佐賀藩の重臣(親類同格)として代を重ね、明治に至りました。
諫早を去った西郷氏はその後、島原半島北岸の西郷に逃れて有馬氏に庇護され、信尚とその家族、家臣らはキリシタンとなりました。
さらにその後、信尚は娘婿の平戸藩主松浦鎮信を頼り、その子孫は代々松浦家臣として仕え続けました。
外国人観光客などで喧騒に満ちた眼鏡橋とは対照的に、高城跡はひっそりとしていて誰もいませんでしたが、本曲輪西側には低いですが土塁の跡が見られます。
本曲輪跡の亀の塔は七代茂晴が正徳5年(1715年)に、八代茂行が寛保元年(1741年)に国家安泰を祈って建立しました。
諫早市によって建てられた碑は、碑面には諫早家の好意により大正8年(1919年)に市民に開放され、昭和33年(1958)に諫早市に寄贈されたとあります。
この場所に大きな楠の木があります❗柵があって中に入れませんが、枝が大きく触る事が出来ます‼️樹木のパワーを頂けますよ✋
息子曰く「トトロの森のくすのき!」巨木の生命力と悠久の時を感じる場所。
3つに先が分かれた大木は、思わず立ちどまってしまう。
神々しい。
15世紀後半に西郷氏によって築かれた城で、江戸時代になると龍造寺四家の一つで、鍋島家親類格の諫早氏が入城した。
その後老朽化した城を維持困難になったため、諫早氏は元禄12年(1699)には東裾側に造営された陣屋に移った。
独立丘陵上にある城には平坦地が残り、曲輪の法面はきつく切りたてられています。
わずかに土塁や水堀が残っています。
クスの大木をはじめとする樹木や植物に覆われて、散策にも最適です!
市内が一望できます。
山頂?の大楠は立派です。
そんなに高くないので、ぜひ上まで。
諫早氏がこの地を寄付されたことに感謝する碑がありました。
雨のあとや落ち葉があると石段は滑りやすいので注意が必要。
木の実が多く子連れでも散策は楽しい。
眼鏡橋は一般的には長崎市のが有名だけど、諫早の方が大きくて美しいです。
自然たっぷりの山の散策はリフレッシュできます。
移設された眼鏡橋と趣き有る城址が素敵です😊
諫早公園のシンボルと言うべき眼鏡橋と頂上の大楠は見飽きないですね。
見易く整備されており順番に周ることで効率よく城めぐりが出来ます。
名前 |
高城跡 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
0957-22-1500 |
住所 |
|
営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.6 |
周辺のオススメ
![](./loading.gif)
癒されます。
ただ街の景観を、見易くしてほしいです。
《高城公園方面と天満町方面》