徳川家光公により但馬国(現在の兵庫県)出石から沢庵...
・始まり徳川幕府第3代将軍、徳川家光公により但馬国(現在の兵庫県)出石から沢庵宗彭(たくあん・そうほう)を招き創建される。
元禄7年(1694年)に品川宿の火災により全焼するも、徳川幕府第5代将軍、徳川綱吉公により再建される。
その後も幕府より手厚い保護を受ける。
500石と47666坪の広大な敷地を持つ。
沢庵宗彭は、漬物ではポピュラーなタクワン漬けの元祖といわれ、元々は関西で食されていたタクワンを関東で普及させたのが、今日のタクワンです。
境内には、青山家のお墓がありました。
青山家とは、徳川家譜代の大名で遠江国(現在の静岡県)掛川藩から始まり、摂津国(大阪府と兵庫県の間にあった旧国名)尼崎藩→信濃国(現在の長野県)飯山藩、丹後国(現在の京都府)宮津藩→美濃国(現在の岐阜県)郡上藩(ぐじょう)で明治維新を迎える。
石高48000石。
因みに、東京渋谷区に青山という地名と青山通りがありますが、この青山という名前は、この青山家から来ています。
山号 萬松山宗派 臨済宗大徳寺派アクセス京急本線、新馬場駅より徒歩5分です。
島倉千代子の墓がある。
徳川家光が禅僧沢庵を迎えて開いた寺。
たくわえ漬、たくあんが考案された地。
風情があり歴史を感じられるお寺です。
沢庵和尚がたくあんを作ったお寺。
沢庵和尚のお寺ということでわざわざ見に行ったのだが、いろんなところに雑物が積み上げてあり、日本のお寺らしく整然としていないというか、ちょっと雑に扱われている感じでがっかりした。
臨済宗大徳寺派・東海寺。
寛永15年(1638)徳川家光が沢庵宗彭を招聘して開山。
寺領5,000石、境内地4万7000坪を賜った別格本山格の寺院で、臨済宗大徳寺派の江戸触頭。
明治維新で廃寺となったものを塔頭玄性院が旧跡を引き継いで現在に至る。
東海寺と問答河岸にまつわるお話です。
一書曰く、「また、御船雁木(みふねがんぎ)ともいえり。
新宿の東の海岸なり。
相伝う、寛永(1624ー44)の頃、大樹(将軍家光)東海寺へ至らせたまひし頃、御帰りのとき、沢庵和尚(1573ー1645)御後ろを見送り奉り、このところまで来たり、御問答ありしとなり。
ゆえにこの唱(とな)えありという。
」とあります。
果たして、どんな問答をされたのでしょうか。
言い伝えではこうなっています。
(将軍)「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」(和尚)「大軍を率いても将(小)軍と言うが如し」面白いですね。
現在の問答河岸の碑は、観光協会も関係しているのでしょうか、地元有志らによって建てられた物だそうで、北品川1丁目22ー20番地に在ります。
実際の問答河岸は「もっと南に下った辺り」との断りも入れていますから納得です。
なぜなら、古文書に「御船雁木とも云う」とあるように、雁木とは桟橋に続く木の階段を意味している訳ですから、船の接岸地でなければならないことで、当時の切り絵図でも見ないと判断できませんが、極端な見方をすれば、東海寺に近い目黒川河岸ではないかと考えております。
もし、東海寺に行かれるのであれば、品川駅から京急線で二つ目の新馬場(しんばんば)駅を降りて、西方向へ目黒川添いに歩いて10分もかかりません。
いい感じに古いお寺です。
お寺の方にもお墓はありました。
沢庵漬けで有名な「沢庵和尚」縁のお寺。
デカい沢庵石みたいなお墓があるが、Google Map で見ると近所の別のところにも「沢庵和尚の墓」が表示されている。
どっちが正しいのか、まだ調べがついていない。
江戸時代には家光将軍から過大な報酬を得たお寺なのに今はその面影がありません。
There is a big temple bell
名前 |
東海寺 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
03-6433-9422 |
住所 |
|
関連サイト |
http://www.tesshow.jp/shinagawa/temple_nshinagawa_tokai.html |
評価 |
3.5 |
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沢庵和尚の墓は通りの向う側、線路したをくぐって、線路脇を品川方こうに行った先の墓地の中です。