三河在住の実弟に連れてこられたのが、この地。
猿橋(武田勝頼公退却路) / / .
長篠の戦いの「いろはかるた」にある「鵜の首を わたりて押し出す 武田勢」は花の木公園の川の狭まった所と知られているが、本「戦国ウォーク 長篠・設楽原の戦い」の著者は本の中で現地調査から武田軍が川を渡った場所は花の木公園では無くこの猿橋の場所である可能性が高いとしている。
名前 |
猿橋(武田勝頼公退却路) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
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三河在住の実弟に連れてこられたのが、この地。
大阪育ちの私が、安井天神で感じる哀愁のような感傷を地元の方々は感じておられるのでしょう。
1575年5月21日、長篠設楽原合戦の武田方敗走のとき、武田家旗本笠井肥後守満秀は主君に自分の乗馬を譲り自らは我こそは勝頼と名乗って、瀧川郷の領主で織田方に属する瀧川源右衛門助義と組討ち、刺違えて戦死したのがここ橋詰、猿橋の地である。
後に、笠井肥後守満秀の子である孫右衛門慶秀は大谷刑部少輔良継に仕えた。
井伊直政は時々大谷吉継を訪ねたので笠井満秀の子が大谷家に仕えていることを知った。
あるとき井伊直政は笠井慶秀に父である笠井肥後守満秀の最後の様子を話し、笠井慶秀は涙を流して聞いたという。
関ヶ原の合戦で大谷吉継が死んだ後、笠井慶秀は井伊直政の話を思い出し、井伊家を訪ねた。
井伊直政は彼の亡父の忠節を思って禄を与えて家臣にしたという。