本丸北側の深堀もいつの間にか埋められてしまいました...
「中世城舘の一つ。
規模は東西45m×南北55m。
員弁川に南面した段丘上に位置する。
現在は杉、松、雑木が茂り、土塁、空堀が部分的に残り、壇もみられる。
勢陽五鈴遺響によると元久3年(1206年)に員弁三郎行綱が居城したというが、不詳である。
また、員弁雑誌によると、永禄年中(1558~1569)に大木舎人が居城したが、織田信長に降伏しその配下になった。
天正4年(1576)に滝川一益に不振をもたれ、大木舎人は西国に落ち延びたために廃城になったという。
」と案内板にありました。
石垣が確認できましたが、当時のものかは分かりません。
名前 |
大木城址 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
http://www.town.toin.lg.jp/contents_detail.php?co=kak&frmId=101 |
評価 |
2.8 |
こんな静かで変化のないところと思っていましたが本丸東の竹やぶは刈り取られ、本丸北側の深堀もいつの間にか埋められてしまいました。
本丸外南東方向の民家にあった土塁も整地され無くなっていました。
笹尾城は既に団地と化して、員弁廃寺は何の指定もないまま開発がすすみそうです。
新文化の創造豊かな東員ですから古文化もお守りください。
城主の大木土佐は落城後、佐々氏のもとで功をあげ熊本へ行きましたが、佐々氏の後に入った加藤清正の武将として働き、朝鮮にも渡っています。
帰国後は加藤家の勘定方として大阪で功をあげています。
清正死後、大木土佐も追腹を切り、清正廟にまつられています。
加藤氏左遷後は大木夕岸は細川家に拾われ明治に至ります。