江戸東京博物館の帰りに立ち寄りました。
無料で入れる資料館。
建物自体も昭和6年竣工の雰囲気ある施設です。
バリアフリー化もしているので、車イスでも不自由せずに利用できると思います。
大正の関東大震災や、戦災被害の記録と、復興の記録があります。
震災って、火災に巻き込まれた方の被害が有名ですが、ここで津波の被害も大きかったことを学びました。
あと、ここの2階の模型展示は、模型そのものが歴史的なモノなので今どきのジオラマ展示ない重厚感を感じました。
関東大震災は2023年に100年が経過するそうです。
当時、陸軍被服廠跡地として、3万8000人が犠牲になったこの地に、今は穏やかな時間が流れていました。
関東大震災と戦災(第二次世界大戦中の東京空襲)の被害と復興について関する資料を集めた記念館です。
一階が震災、二階が戦災のコーナーになっていますが、どちらも災害の遺物や写真、文書、絵画などが豊富にあり、いたたまれない気分になりますが、見所は多いです。
黒こげの遺体写真などもあるため、気になる方は心してください。
関東大震災、東京大空襲関連の遺品、写真などが展示されているが、両災禍の規模の大きさ、被害の甚大さは共通しており、その悲惨さに息を呑む。
そして火災での被害拡大が共通していたものと感じる。
壊滅、復興を繰り返して今の東京があるが、平和は続くものではなく、続かせるものであることの重要性を、感じさせられる場所。
入館料は無料です!軽い気持ちで入館しましたが、太平洋戦争と関東大震災の時の展示物でした!当時の様子も詳細にあり悲惨さも伝わってきました!平日の昼間と言うこともあり人もいなく、結構長く見続けることが出来ました!
横網町公園にある、関東大震災と太平洋戦争の被害の様子を展示する都立の資料館。
よくある小ネタですが、横網町を知らない方は「横綱町」と間違える方が約8割!(当社調べ←適当です)。
いま書いていても、合っているのか間違っているのか、ゲシュタルト崩壊を起こしています。
そもそもの文字が間違い探しのレベルに加え、場所が場所だけにほぼオートマチックに先入観で相撲関係だと脳が認識してしまうんです。
ホント、紛らわしいんデス。
この設計者は明治神宮本宮や湯島聖堂、大倉集古館などを手掛けた明治時代の巨匠、伊東忠太。
ちなみに隣接する東京都慰霊堂も彼の設計です。
この地は明治時代、陸軍被服廠という工場がありましたが、1919(大正8)年に赤羽に移転後は空き地となっていました。
そこに1923(大正12)年、突然襲ってきた関東大震災。
この両国界隈を含む下町も壊滅的な被害を被りました。
繰り返す余震に怯えながら、命からがら市民は瓦礫を掻き分け、空き地となっていた被服廠跡地に集まってきました。
ところがそこに、世にも恐ろしい火炎旋風がここを襲ったのです。
火災旋風とは、炎により急激な上昇気流が発生、炎がまるで竜巻のようになり、一説では1000度以上の高熱が秒速100mもの超高速で移動する悪魔の化身です。
安全と思われた避難所は、強風に煽られた火災旋風が何度も何度も襲いかかり、たちまち阿鼻叫喚の地獄絵図の様相となります。
被服廠跡地に集まった避難民約4万人のうち、約3万8千人が火災旋風の犠牲となり、ここだけで関東大震災の死者全体(10万5千人)の約35%を占めるという、震災最大の激甚被害地点となりました。
そのため、ここに慰霊堂と資料館を建築して被害者の亡骸を納めるとともに、この災厄を祈念することにしたのです。
建物の中に入ると、この資料館設立の経緯を説明した映像をみるコーナーがあります。
更に奥に進むと、関東大震災の被害状況や被災者の様子の写真や解説パネルが展示されています。
他にも関東大震災をテーマとした絵画や彫刻などなんだか総合文化系博物館の様相を呈しており、そのごった煮のような幅広さが特定テーマ博物館にありがちな「お腹一杯感」を感じさせません。
中でも注目したのが、震災の写真の多くが合成されていた、ということ。
新聞社が撮影した写真が展示されているのですが、写真の奥(遠く)の方の煙や炎は迫力を増すための合成だったのです。
当時はコンプライアンスなんて無かったのでしょうね。
もう一つは、震災の困窮民支援を行うボランティアの1人として、有名な大正三美人の1人である九条武子がくたびれた表情で支援のビラを配っている写真が印象的でした。
横網町公園にある復興記念館外観より歴史を感じますが、1931年(昭和6)の開館関東大震災、東京大空襲から力強く復興してきた歴史を学ぶとともに、それを支えてきた人々の復興への努力に感謝。
関東大震災と東京大空襲のことを知ることができる貴重かつ大切な場所です。
皆さん一度は訪れることをおすすめします。
関東大震災と東京大空襲の様子を、白黒写真で展示されている記念館。
(百聞一見)《入館無料》
復興記念館では関東大震災と東京大空襲の被害を物語る展示を見ることができます。
東京は2度も焼け野原になった当時の写真は生々しくも心に残ります。
記憶に残る東日本大震災からもう10年がたちますが、災害や震災はいつでもそばにあることを思い起こさせてくれる貴重な記念館です。
江戸東京博物館の帰りに立ち寄りました。
横綱公園にあり、入館料は無料です。
関東大震災の大惨事を、写真と展示物で説明しています。
わが家の防災を見直すつもりで、1度立ち寄ってください。
関東大震災の展示施設として戦前竣工した建物で趣があります。
1階は関東大震災。
2階は東京大空襲に関する展示が常設してあります。
関東大震災の展示は展示数こそ少ないものの、私が知っている内容の根拠を見ることができたり、往時の様子を想像させる資料があったりと、大変勉強になりました。
ただ資料を展示するだけで説得力のある博物館というものは、恐らく歴史の授業である程度の下知識が無いと成立しないので、「義務教育よ有難う」と、なんとはなしに心に思いました。
東京が受けた2度の災難の記録がここにあります。
1923年の関東大震災と1944-45年の東京大空襲です。
今の日本が多くの人の犠牲と努力によって成り立っていることを知ることができます。
近年、自然災害に関するメモリアル施設が各地でつくられている。
それらに比べると、この施設は古めかしい。
けれども、空襲や関東大震災がいかに悲惨なものだったのか、ここに来ればそれが判る。
そして、東京、日本が奇跡のような復興を遂げたことも判る。
「関東大震災と東京大空襲について詳しく解説。
残酷な写真はごく一部。
」 昭和という時代のたった2つの出来事ですが、その影響はあまりにも凄まじく、まさに激動の時代と表現されるのも納得させられます。
震災と空襲で当時の人たちがどれだけ大変な苦労を味わったのか、豊富な写真とともに説明してあります。
建物は2階建てで1階は震災、2階は空襲になっています。
やはり私的な思い入れがありますので、空襲のほうが印象的でした。
やっと震災からの復興が一段落ついたら今度は戦争。
私だったら耐えられたかなと感じました。
しかも震災のときに、中国とアメリカが多額の義援金を寄付してくれたにも関わらず、その後両国と戦争する羽目になってしまったのは、何とも虚しさを感じました。
善意から義援金を送った相手なのに、原子爆弾や空襲で、夥しい数の民間人を殺戮したとはやるせなくなります。
やはり正当化出来ません。
正直に言って、これまでの甚大災害のトラウマに苦しんでいるひとは行かないほうがいい。
戦争や関東大震災の爪痕や、当時の様子を克明に描いた絵画や写真、犠牲になられた方々の遺物は、見ていて余りにも辛すぎる。
ただ、そういった経験を実感していない人は、絶対に見に行くべき。
大事に貯めておいた硬貨も、自転車も、あらゆるものがぐちゃぐちゃに溶けて、完全に形を失っている様を見ると、いかに悲惨な過去が起こっていたかがはっきりとわかる。
是非、今こういうことが再び日本に起こったら、自分や自分の大事な人達、物たちがどういう目に遭うかを実感してほしい。
確か入場料は無料です。
残したい建物です。
バリアフリーで車椅子でも入れます。
授乳室もあり誰にでも優しい記念館です。
今度は子供も連れてきたいです。
1922年9月に発生した関東大震災では、周辺の人々がこの地にあった旧陸軍被服廠に避難しましたが、火災により4万人近くが死亡する大惨事になりました。
本記念館は、震災の惨事を伝え、復興事業を記念するために1931年に開設されました。
震災からの復興計画を広報する展覧会のために作成された模型が多数保存展示されています。
その大きさと精密さは今でも驚きを感じるくらいで、帝都復興という大事業への意気込みが感じられます。
しかしながら震災からわずか20年余り後には、今度は第二次大戦の空襲で首都は又々壊滅的な被害を受け、復興もゼロからやり直しになりました。
本記念館には第二次大戦時の空襲や、戦後復興に関する資料も展示されています。
即ち本記念館は、天災と人災と、二つの大きな災害に関する資料館です。
建物は空襲戦災を免れて完成時のままで、歴史を感じるだけでなく、気の引き締まる重々しい雰囲気です。
「関東大震災写真の謎(改ざんやねつ造はなぜ行われたのか)」という企画展に魅かれて久し振りに見学しました。
被災地の惨状を伝えるとされる有名な写真にも改ざんやねつ造されたものがあり、今もまことしやかに流布されているとは意外であり、腹立たしくもあります。
ねつ造の動機や意図は昨今のフェイクニュースにも共通するように思いますが、単なる愉快犯ではなく、報道機関が主体で関与しているだけに職業倫理の破綻は深刻です。
昔の写真は白黒で粒子が粗く、細工は容易に見えます。
個人の感想ですが、当時の写真がどれも怪しく感じられるようになってしまいました。
直下地震でなくても液状化したり、台風や大雨で大きな被害が発生することは今でも珍しくなく、むしろ激化している印象です。
被害の発生後に調べると、実はとっくの昔から危険を指摘されていたりします。
戦争はともかく、天災に対しても現状の対策は安心できる水準からはまだまだ遠いのではないでしょうか。
記念館のパンフレットに「緩む心のねぢをまけ(大震災記念日標語)」とありますが、展示資料を時折見て苦難を忘れず慢心を戒め、現状の対策を見直して改善努力を続けることが、多くの犠牲を無駄にしないで記念することと感じました。
関東大震災の惨事と復興の模様が資料や写真からわかります。
大正12年、1923年9月1日関東大震災による大火災旋風が地震の発生からおよそ4時間後位にこの地域を襲いました。
この横網公園のあたりは本所被服廠跡と言い、陸軍の軍服を作る建物の跡地でした。
関東大震災の前年にその建物が本所から赤羽に転居し、東京都が公園整備するので買い取ってちょうどこちらは広大な更地になっていました。
そこへ、大八車などに家財道具を乗せた群衆が一斉に避難して来て、身動き出来ない程になってしまいました。
当日は能登半島の方に台風があり、10メートル以上の強風でした。
関東大震災の死者10万5千人のうち、およそ3万8千人が本所被服廠跡での被害者だそうです。
当時の生々しい遺品などもありました。
東京大空襲の展示もありましたが、ちょうど工事中で、2階部分がまだ完成していなかった為少ししかなくて残念でした。
全部、改装されたら又、見に来ようと思います。
関東大震災と戦争の悲劇を今の時代を生きてる人間に伝える建物です。
一度は、行く価値があると思いますよ。
江戸東京博物館から歩いて来れる距離にあるので、これも東京の歴史として見ておくべきだ。
関東大震災や戦災の遺品、被害品、絵画などが展示されているようです。
入館無料。
2018年1月現在、工事のため2階のみの開館です。
一年後の2019年3月に全館開館予定です。
横網町公園の敷地内にある建物。
この公園は旧陸軍被服廠のあった場所で東京市がここを買い上げ公園として整備しようとしたが、奇しくも関東大震災が発生し震災犠牲者の追悼目的で震災記念堂を建設。
その附属機関、震災の教訓などの目的で建てられた。
終戦末期に疎開や避難を禁じたために空襲被害が拡大したことを隠さず全面に出してもっと強調するべきだ。
空襲の被害は米軍だけによるものではない。
同じ被害を二度と繰り返さないことを確実にするためには、様々な角度から検証しその証拠を残して共有する必要がある。
復興記念館も伊東忠太氏が設計に携わった建築です。
復興記念館はかなり破損している彫刻もあります。
この記念館は、関東大震災・東京大空襲についての展示が主体です。大震災や大空襲の恐ろしさを学ぶには良い場所です。
歴史的価値を知るために必ず行くべき。
昭和6年に建てられた当時の建物だそうで、一見の価値有りです。
当時は軍服等を作っていた被服所です。
関東大震災でアメリカがとんでもない額の復興支援をしているのがわかります。
公園の反対側では、それらを爆撃で半分ぐらい焼き尽くしたのもわかると思います。
名前 |
東京都復興記念館 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
03-3622-1208 |
住所 |
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営業時間 |
[火水木金土日] 9:00~17:00 [月] 定休日 |
関連サイト | |
評価 |
4.2 |
当時の人たちの思いを知れる両国駅東口から徒歩7〜8分、横網町公園内にあります。
関東大震災後の復興に関する写真や絵画、震災で焼けたものの残骸など、当時の被害の大きさ深刻さがよく伝わってきます。
無料で入れるので、多くの人、特に若い人にに見てもらいたいです。