神功皇后の魚釣りの伝承が残る神社です。
玉島神社は神職を置かず、地元の方々の努力で維持されている異色の神社である。
駐車場は、近くにある万葉垂綸石公園にどうぞ。
垂綸石ともども、神功皇后の鮎釣りを記憶する社。
「垂綸(すいりん)」は、釣糸を垂れたことをいう。
記紀と風土記のいずれにも記す重要イベントであったらしく。
古事記:亦た筑紫末羅縣の玉嶋里に到り坐して其の河邊に御食の時、當に四月の上旬、其の河中の礒に坐すや、御裳の糸をば拔き取りたまひ、飯粒を以て餌と爲し、其の河の年魚を釣りあそばす。
其の河が名を小河と謂ふ、亦た其の礒が名を勝門比賣と謂ふ也。
故、四月上旬の時、女人裳糸を拔き、粒を以て餌と爲し、年魚を釣る、今に至るまで絶へずとぞ。
日本書紀仲哀天皇巻:夏四月壬寅朔甲辰、火前國松浦縣が北に到り、玉嶋なる里の小河の側に食を進らむとす。
是に於て、皇后針を勾げ鉤と爲し、粒を取りて餌と爲し、裳縷を抽き取りて緡と爲し、河中石上に登りて鉤を投げ之に祈りて曰く「朕、西に財國を求めむと欲す。
若し事成るにし有れば、河魚鉤を飲め。
」因りて以て竿を舉ぐるや、乃ち細鱗魚を獲。
時に皇后曰く「希見(めづらし)物也。
」故、時の人其の處を號けて曰く梅豆羅の國、今に謂ふ松浦は訛れるなり。
是を以て、其の國の女人、毎當四月上旬、鉤を以て河中に投げ年魚捕ること今に絶へず。
唯、男夫は釣らむと雖も、以て魚を獲ること能わず。
肥前國風土記:松浦郡:昔は氣長足姫尊、新羅へ征き伐たむと欲し、此の郡に行でまして、食を玉島なる小河の側に進る。
茲に於て皇后の針を勾げて鈎と為し、飯粒を餌と為し、裳絲を緡と為し、河中の石上に登りまして、鈎を捧げ祝ぎて曰く「朕、新羅へ征き伐ち、彼の財寶を求めむと欲す。
其の事の功成り凱して旋らば、細鱗の魚、朕が鈎緡を呑め。
」既に鈎を投げ片時、果して其の魚を得。
皇后曰く甚だ希見(めづらし)物なりと。
因みて曰く希見國と、今や訛りて謂ふは松浦郡と。
ゆゑに此の國の婦女、孟夏四月常に針を以て年魚を釣る。
男夫羅(あみ)釣すれど之を羅すること能わず。
古事記では普通に食材を釣ったように書き、日本書紀では占いとしての側面を強調する。
風土記も「紀」寄り。
この温度差は、政治的な原因があったに違いない。
神功皇后の魚釣りの伝承が残る神社です。
綺麗な川に面しています。
昔の道は、鏡山より南側を通っていたそうなので、神社の近くに道があったのかもしれません。
名前 |
玉島神社 |
---|---|
ジャンル |
/ |
住所 |
|
評価 |
4.3 |
ご祭神は、神功皇后です。
創建は宣化天皇の時代(536~539)に大伴狭手彦によって建てられたと伝えられます。
かつては、聖母神社とも呼ばれていました。
伝承によれば、神功皇后が三韓遠征のおり玉島の里に立ち寄られ、玉島川のほとりで食事をなさいました。
川の魚を御覧になった皇后は、針を曲げ釣針を作りご飯を餌に魚釣りをして、戦いの勝利をうらないました。
その時に釣れた魚が、魚に占うと書い鮎になったと云われています。
その場所はこの神社の少し川上で、現在万葉垂輪公園になっています。