埼玉県内最古の県指定史跡だそうです。
資料によると、源義賢は源為義の次子(源頼朝の叔父にあたる)で、近衛天皇が皇太子の時に仕え、帯刀の長となったので、帯刀先生(たてわきせんじょう)と称し、その後東国に下り、上野国多胡館を本拠地としていましたが、更にその後にここ嵐山町大蔵の大蔵館に移住してきました。
久寿2年(1155)に大蔵館で義朝の長子である甥の悪源太義平と争い討たれたといいます。
この騒動は大蔵合戦と呼ばれています。
とあります。
帯刀先生義賢の墓としては、大蔵合戦で敗走した源義賢が、旧領地・上野国多胡館へ逃げ延びる途中、追っ手に討たれたとされる、児玉郡上里町の福昌寺にも、その供養塔があります。
草が多くあり、五輪塔までは行きませんでしたか、埼玉県内最古の県指定史跡だそうです。
名前 |
帯刀先生源義賢公 御廟所の碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
2.8 |
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この碑の先、鳥居の向こう側に源義賢公の墓所があります。