貴重な旧日本軍の歴史を見れる場所。
いまの日本が色々な英霊の方々によるものだと理解させられます。
本当にありがとうございます。
これから青春を謳歌するであろう若者達がここの地で訓練をして、御国の為に身を捧げました。
心より哀悼の意を捧げます。
小さい展示室が併設されています。
この町で特攻兵器のボート(震洋)、潜水士(伏竜)が訓練されました。
小さな展示室と実物大の震洋が展示されています。
敵の機銃が貫通するような木造船です。
敵は震洋が現れると船べりから材木を落とし近づかせないようにしながら(材木に当たったら誤爆してしまう)機銃で攻撃をしたそうです。
国の為にという思いを持っていたとしても、物資窮乏で粗末な兵器しか与えられず悔しい思いをしたんだろうなぁ ご冥福をお祈りします。
英霊に感謝。
現代平和の礎となった英霊感謝と哀悼の意を捧げます。
原為一大佐(27駆司令、軽巡矢矧艦長など歴任)が大和水上特攻で生還され、後に震洋特攻隊の司令として勤務された地。
正直、記念碑と小さな小屋の博物館以外に往時を偲ぶものはあまりありません。
ただ、桜の季節には気持ちいい風が吹きます。
碑にはびっしりと犠牲になった兵士の方々の名前が刻まれています。
お一人ひとりの名前の後ろにたくさんの涙と苦しみが隠されているのだと思うと心が苦しくなります。
決して忘れてはならない過去を語るものです。
昔はここで特攻兵器である魚雷艇・震洋を造っていたそうです。
現在は特攻で命を散らした若者達を鎮魂する為の碑があります。
資料館も併設されていましたが、開いていませんでした。
1944年、日々悪化する太平洋戦争の戦局を挽回する為、 魚雷艇の訓練場として横須賀から移転。
44年9月頃より、特攻艇「震洋」要員の要請を始め、人間魚雷「回天」、機雷「伏龍」、小型潜水艇「蛟竜(こうりゅう)」 などの要員育成、全国から志願した数万人の若者が日々訓練を受け、出陣した3511名の殉国者全員の氏名が刻銘されている。
また、東彼杵君川棚町には、佐世保海軍工廠などで製造された魚雷の発射試験を行う「川島魚雷発射試験場」があり、 その遺構は今でも現存。
きれいに整備されており、供養がしっかりでき、遺族の方や地域の方が守っているという事が伝わってきます。
ですが、歴史的遺物と言う訳でもなく、資料がしっかり揃って常時開館している資料館があるというわけでも無し。
慰霊碑ですが、後世にしっかり伝えるべき「何か」がなく、多少あやふやにされている所があるので星3つです。
川棚方面から早岐 ハウステンボス方面に向かって看板に沿って左折して,狭い道をしばらく大村湾方面に向かい300メートルほど先の三叉路を右折先の戦争時の大きな悲劇若いこれからの命を空からの特攻隊とはべつに爆弾を船首に積んで敵艦に体当たりをする絶対助からない戦い 全国から沢山の志願兵が集まってこういう事実を後世まで伝えていく事が大事ですね。
太平洋戦争末期、船による特攻を訓練した施設です。
悲しい歴史とともに忘れてはならない場所でもあります。
特攻隊員の慰霊碑と 爆薬を積んで特攻する船の模型を展示しています。
色々と考えさせられる所です。
貴方達の青春を捧げた戦争という人間らしい魂の汚れを少しでも貴方達に酬いるよう笑顔の世界に変えていきます。
毎年、5月に慰霊祭が行われるので、その一週間前に地区の方々(敬老会・婦人会)と清掃(草むしり等)を行っています^^;
戦争時代の遺品とか少し展示されてた様な?
特功魚雷艇”震洋”の訓練施設跡。
特功艇といえば回天しか知らなかった。
貴重な旧日本軍の歴史を見れる場所。
住宅街の一角にひっそりとあります。
道路に面した看板は見落としがちなくらい静かな環境です。
当時川棚には旧海軍の軍事施設が点在してました。
此処は、特攻ボートである震洋の訓練所が在った所です。
西海橋をくぐり抜け、佐世保港に停泊中の艦船めがけて訓練をしたそうです。
綺麗に整備されています。
一度は訪れて見てください。
繰り返してはいけない、忘れてはいけない近代史を伝えてくれる静かな遺構です。
ボランティアの方による清掃、整備、解説、案内などあり、一度は訪れて頂きたい場所です。
名前 |
特攻殉国の碑 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0956-76-8335 |
住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
4.0 |
毎年、5月第2日曜日に特攻殉国の碑慰霊祭を催しています。
令和5年は、コロナ禍規制緩和もあり久々に御遺族や御来賓臨席頂いて、郷民主催の慰霊祭を開催することが叶いました。