高山右近像 彫刻家 西森方昭 作品高岡古城公...
高山ファンなら一度は行くべし✌️
前田利家の遺書にも右近は大事にせよと書いてあったり前田家にとって高山右近という人は大事な人だったんですね。
小学生の頃、「高山ウンコ」と呼んでいたことから興味が湧いた武将。
偶然ではあるけれど、こうしてお会いできたのはやはり何かの御縁。
マニラに流されたことで知られるキリシタン大名。
一時期は前田家の客将であり、高岡城の縄張りを設計したことから、城址の一角に銅像が建てられている。
やたら格好いい。
高山右近像 彫刻家 西森方昭 作品高岡古城公園の大手門跡にあります。
像の傍らに立てられている高山右近顕彰碑には以下のように記されています。
「高山右近(1552-1615年)諱は長房、通称右近太夫、洗礼名はジュースト、茶道では南坊と号した。
織田信長、豊臣秀吉に抜擢され明石12万石の大名となり、切支丹禁令を拒否して追放されたが、細川忠興の斡旋により秀吉の内諾を得て加賀藩に1万石以上の高禄で迎えられた。
前田利家、利長は茶聖千利休門下で南坊と相織り、無二の知友であった。
高岡市の開祖 利長公が隠退後の慶長14年に築いた高岡城は、築城の名手右近が縄張りをした。
独創遠大な構成で、江戸城・大阪城に比肩すると評される名城である。
公は天下大勢を洞見し、徳川、豊臣の抗争再燃を憂慮して、万々一の有事に備える深謀の築城であった。
公は天下大勢を洞見し、徳川、豊臣の抗争再燃を憂慮して、万々一の有事に備える深謀の築城であった。
徳川幕府の禁教令は愈々厳しく、慶長19年正月右近は国外追放となり、在籍26年の恩遇を深謝して告別した。
11月ルソンに渡ると大歓迎を受け、令名はスペイン、ローマまで轟いたが、間もなく悪疫に冒され翌年元和元年正月、数奇多難の生涯を終わった。
「高岡市民は、利長公と高山右近、異体同心の苦衷を偲び敬意の至情は綿々子々孫々に及んで永遠不滅である。
」高山右近顕彰碑の碑文は高岡市史編纂委員で郷土史家の和田一郎氏が書かれました。
高槻と遠くマニラにも同じ銅像があるそうです。
碑文の文言が感動的です。
もっと知られるべき。
名前 |
高山右近像 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.3 |
高山石碑すごい。