海舟の功績を後世に残すため、全身像を建立されたと伝...
墨田区役所前の銅像。
「世の中に無神経ほど強いものはない」名言として残っているようです。
そうなりたいし、それで生きていける世の中であって欲しい。
ちょっと飛躍し過ぎている感もあるけど、偉人達は皆そうだったのかな。
墨田区に生まれた勝海舟の像です。
春の桜と合わせて見れば、また「日本の夜明け」の感じ方も違います。
桜を見る方は、隅田川沿いを歩くと良いでしょう。
墨田区役所広場、隅田川、浅草吾妻橋を見渡せる位置に立ちます。
有志団体さんが寄贈されたそうです。
坂本龍馬の恩師、西郷隆盛との会談無血開城で、江戸の町を救った恩人です。
「勝海舟の銅像を建てる会」の尽力により建てられた像。
勝海舟の歴史をぎゅぎゅと学べます。
隅田川沿いを墨田区側を歩くと見えてきます!
幕末の雄、勝海舟は本所の出身、海舟の功績を後世に残すため、全身像を建立されたと伝えられています。
皆さんここで勝海舟と並んで写真を撮るのが何回も目撃してます。
墨田区の偉人。
両国の絵も見た。
忙しい男だね。
この人のすべてが大好きで息子の名前も麟太郎とつけました!
墨田区役所入り口の脇にあります。
平成15年に木内禮智という方が制作した銅像で、像高2.5m、台座も入れると5.5mだそうです。
さて、なぜここに勝海舟の銅像があるのか?ですが、現在でいう「両国4丁目(墨田区)」で生まれたからだそうです。
また、銅像は、「勝安芳(かつやすより)」とありますが、これは、麟太郎(幼名)→ 義邦 (よしくに)→明治維新後に 安芳(やすよし)と名を変えて名乗っていたからです。
多くの方が「勝海舟(かつかいしゅう)」と思っているかと思いますが、これは「号」になります。
田町の駅からすぐの所に「西郷南洲・勝海舟会見の碑」というのがあるかと思いますが、西郷隆盛も号は「南洲」で、勝安芳も、号が「海舟」と考えるとわかりやすいかなと思います。
墨田区役所の裏にあります。
立派な勝海舟像です。
勝海舟イケメンでした。
何度も横を通っていましたが、銅像の存在に気付きませんでした。
北の方から降りてくると気付きにくい場所にあります。
南の方から登ると分かると思います。
なんでここに勝海舟像があるのか、よくわからなかったのだが、墨田区(現在の両国4丁目)で生まれているから、墨田区くくりでと言う意味のようだ。
隅田川を眺められるとても良い場所にある。
勝海舟の死ぬ間際の言葉は、(これでおしまい)客観的に最後迄自分の役割を演じていた勝海舟でした。
さて、人気度合が銅像という一点で判断されるとすれば、銅像の完成まで長い時間がかかったと言うのはどういう事なのでしようか。
江戸城明渡しの際の交渉相手の西郷隆盛でさえ、没後約20年。
それも、政府に弓をひいたにもかかわらず、日清戦争後の恩赦により上野に建てられた。
一方の幕府側の勝海舟は、約1世紀後です。
余程、幕府からも新政府側からも煙たがられた存在だったのでしょうかね。
一言で言うなら、どちらの側からみても、(煮ても焼いても食えぬような奴)、それが(勝海舟)だったような気がします。
場所は、吾妻橋東詰。
勝海舟生誕180年の2003年、海の日に建立された立派な像です。
坂本龍馬の師でもあり、江戸城無血開城に関わった三舟の1人勝海舟。
勝海舟さんが望む先には東京湾、そのまた先には太平洋があります。
勝海舟の像があるのは日本でも珍しい。
墨田区役所傍ら、うるおい広場にあるのもそのひとつ。
ここにあるのは、牛嶋神社(昔は弘福寺の傍らにあった)で厳しい剣術の稽古をしたと云われ、弘福寺では禅修行に励んだと云われている縁だからです。
この界隈、春になると桜が綺麗です。
ある意味で 江戸を救った恩人。
勝海舟の立派な銅像がありました。
※目的無く、ぶらぶらしてたら✨何だろ🎵でした。
春は桜の名所の墨田区役所横に勝海舟の立派な銅像があります。
名前 |
勝海舟像 |
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ジャンル |
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住所 |
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営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.8 |
勝海舟生誕180年の2003年に、「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区に寄贈それたもの。
勝海舟(通称麟太郎、名は義邦、のち安房、安芳)は、文政6年(1823)1月30日に江戸本所亀沢町(両国4丁目)に生まれ、明治32年(1899)1月19日に逝去。
写真は2023/4/22のもので生誕から200年。