安倍貞任の足跡を辿る。
厨川柵の特徴
安倍貞任の拠点としての歴史的な価値があります。
案内板が設置されており、情報が充実しています。
平安時代や安倍氏の文化に触れられる場所です。
2022年7月24日に訪れました。
安倍氏が奥六郡を支配していた際に、12の柵を築いて防衛線を引いたと言われています。
この厨川柵は、最北の柵でした。
ここよりも北は、安倍富忠が統治する地方だったと言われています。
天喜4年1056年から始まった前九年の役は、安倍富忠の寝返りを招き、安倍頼時は、毒矢の傷がともで、本拠地である衣川館に帰還する途上、安倍宗任が守る鳥海柵で陣没してしまいます。
源頼義・義家が率いる朝廷軍と清原武則の連合軍は、主人を失った衣川柵を突破しました。
安倍頼時の後を継いだのは、厨川柵を守る安倍貞任でした。
敗走した安倍軍は、厨川柵に集結し、再起を図った決戦をしかけましたが、康平5年1062年に敗れて安倍氏は滅亡します。
安倍貞任は、討ち死にし、首は、五寸釘を打たれて陣ヶ岡に晒されました。
鎌倉幕府を開いた源頼朝は、奥州藤原氏を滅ぼした文治5年1189年に、先祖の先例に倣い、この厨川柵に進駐しました。
河田次郎が届けた藤原氏4代泰衡の首は、安倍貞任と同様に五寸釘を打って、陣ヶ岡に晒したと言われます。
奥州藤原氏討滅に戦功のあった伊豆の工藤小次郎行光に岩手郡の所領が与えられました。
工藤氏は、現在安倍館と呼ばれている北上川の崖上に厨川城を築きました。
厨川城の場所が、女區戸(うばど)柵だったのではないかという説もあります。
後に南部氏に臣従した工藤氏は、栗谷川氏を名乗りました。
栗谷川氏の庇護を受けて建てられたのが、天昌寺だと伝えられています。
天昌寺には、栗谷川氏の御墓があります。
案内板より、陸奥の豪族安倍氏は平安時代の後期になると、衣川作を中心に北上川沿岸やその他重要な場所に城柵を設け 最北端の拠点である厨川の柵には、宗嫡男の貞任を配した。
天喜年(1056年)前九年の役が起こったが 安倍氏の勢力が強く国司軍源頼義軍は平定することができず、出羽の豪族清原氏の来援によって安倍氏軍は次第に退き、この厨川柵に全精力をあげて最後の決戦を行ったが、破れて滅亡した。
康平5年(1062年)秋のことである。
厨川柵とは安倍館 権現坂 天昌寺台地を抱えた広大な地域とされ、昭和32年にこの大地の一部を発掘調査した時には、堀跡 土器 鉄片 古銭(宋銭)等が発掘された。
文治5年(1189年)源頼朝が、奥州藤原氏討伐の軍を起こし、自ら七軍を率いて平泉を攻め落とし、厨川柵まで進駐し、一週間ほど滞在をした。
この戦功によって伊豆の工藤小次郎行光に岩手郡を給した。
工藤氏は安倍館に居館を構え、南北朝後期 室町期を経て、南下した南部氏の勢力に臣従して、「栗谷川」を称した。
天正20年(1592年)阿部館は、豊臣秀吉の命によって破却された。
寺伝えによれば、天昌寺は、工藤氏の庇護を受け栗谷川三成の時代に曹洞宗となり、山号を岩鷲山と号した。
天昌寺の観世音菩薩は、この工藤氏代々の持仏で、明治年間に納められたと伝えられる。
昭和55年11月盛岡市教育委員会 天昌寺。
案内板がある。
明確な遺構はない。
安倍館跡にある案内板によれば、ここは厨川柵の端部に近いようだ。
盛岡では有名なお寺みたいです。
案内板は道路沿いにありますが、寺の入り口は、案内板とは真逆の場所にあって駐車場も入り口近くにある。
天昌寺から安倍館遺跡辺りの広大な敷地が厨川柵らしいが、根拠もないです。
名前 |
厨川柵 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.7 |
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厨川次郎こと安倍貞任の拠点疑定地。