【織田軍に関連あり】
走井山公園内に位置。
隣接して走井山勧学寺、お菊稲荷、白龍龍神、殉国碑、戦没者慰霊碑等があって綺麗に維持・管理されています。
駐車場は東隣の漢学寺さんにあります。
また、多目的公衆トイレも完備しています。
説明板がありましたので、ご紹介します。
-原文のまま-【走井山勧学寺と矢田城跡】此のあたりの丘陵は、観音山又は走井山と称し地形は突角の要地をなしている。
当山の開基は45代聖武天皇の御宇(天平年間)に僧行基菩薩が東国巡化の折、当山の風景を愛でられ、是れ末代仏法判事用の土地なりと自ら千手観音の立像を彫刻し当山に安置されたのが始まりと云われ境内に名水「走り井」ありしにより走井山を山号とす。
矢田城は元亀或いは天正年間に矢田半右衛門尉俊元の築城とされる。
時の城主は観音を信し、これを城の北方に祀っつたと云う。
この走井山矢田城は、、織田信長の家臣滝川一益が、信長の命により勢州平定の際に陥落し、城主俊元は自害した。
江戸時代元和元年に、桑名城主本多忠勝公の家臣本多半弥が山麓にあった観音堂を矢田城跡走井山に移した。
後に桑名城主松平越中守定重公が、これを再建され結構を改めた。
石段から表門に入ると正面に本堂・太子堂(明和年間桑名中惣大工連により今建立寄進された、聖徳太子立像が祀られている)左手に鐘楼・庫裡と続き、右手に水茶屋があって常に遊山の人々が絶え耐えなかったという。
当山の開帳は毎年八月十日としこれを十日観音と称し九日より山は人で埋もれたといわれた。
本尊は県文化財に指定され一木作千手観音立像(約六尺)で寺伝によれば弘仁時代(西暦810年)の優れた技法による名作であることは、戦前の文部省国宝調査委員会及び奈良の仏師故明珍恒夫氏など専門家の証されるところであったが、この本尊は破損甚だしく光背台座がなく御手も多数欠損しているために補修復元が必要とされた。
本尊千手観音立像は昭和39年3月に約千年の間の損傷甚だしいため、補修復元を施し現在に至っている。
と、なっています。
素晴らしい!
戦国時代の矢田半左衛門の居城、織田信長の伊勢攻めで落城した、妖刀村正を作った刀鍛冶が製作した場所と言われている。
名前 |
矢田城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.3 |
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御先祖様の城です!とても良い雰囲気で迎えてくださいます。