本丸側から登って、山崎丸に下りました。
本丸側から登って、山崎丸に下りました。
大獄兼山頂からは雄大な展望を期待して、長く急な木段を上がってきました。
だか、鬱蒼としておりました直ぐに下りました🏃 直下の岩尾が絶景でやんす。
ここが小谷山山頂452m。
折角だからここまで来てね。
標準タイム3時間。
整備されており歩きやすい山道ですよ。
本丸跡、六坊跡を経由して行く道は階段が整備されています。
ただ段差があり、段数も多いのでなかなか大変でした。
福寿丸跡、山崎丸跡方面は道はありますが、山道ですので登山靴がお薦めです。
小谷山(標高494.5m)頂上にありました☀️追手道から登って80分位かかりました‼️トレッキングシューズがいるかも⁉️
土塁に囲われた曲輪跡が二重三重にあります。
南側の福寿丸の方面の虎口がはっきり残っていて見所と思います。
東側の小谷城方面は草が茂り不明瞭でした。
小谷城より、更に高いところにあった山城で、体力に自信のある人におすすめのハイキングコースです。
小谷城跡のある小谷山山頂に築かれた城砦跡地。
歴史に埋もれた名舞台。
朝倉、浅井ラインを分断、永きにわたる足利政権を根絶させる起点となった一夜である。
天正元年(1573)8月12日、織田信長は僅か数千の手勢で嵐の小谷山を開け上がった、数日前降伏した対馬守の案内に大嶽の砦を急襲、見事砦を守っていた朝倉勢を敗走させた。
嵐の急襲に慌てた朝倉軍は情勢不利と逃げ帰ったところ数万の兵で追い討ち、大将こそ逃したもののこれを撃退。
これを機に、朝倉降伏、浅井滅亡、将軍追放と、信長天下布武後編の布石となった砦責めである。
また砦としては、広義の小谷城に含まれる支砦であるが、独立性が高く、大嶽砦落城後も小谷城は単体でしばらくもちこたえているため、個別の城砦という認識。
小谷城は、浅井亮政によって大永五年(1525)までに築かれたとみられているが、亮政時代の小谷城は大嶽にあったとする説がある。
天文年間(1532~55)の六角氏の文書に「大嶽」という呼称がみられることが論拠とされ、また『朝倉宗滴話記』には、宗滴が大永五年に援軍として訪れた際の記述として、「大谷 七月十六日城責有之」とあり、「大谷」が「大嶽」と同義である可能性も指摘できる。
元亀元年(1570)、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍が織田・徳川連合軍に敗れると、小谷城は対信長戦の前線拠点となった。
このため、朝倉義景の援軍がしばしば小谷に駐屯するようになり、大嶽の砦はこの流れのなかで朝倉勢によって築かれたものと考えられている。
織田家と浅井家の同盟破棄後、数年来続いた対立も大詰め。
比叡山延暦寺焼き討ち後、武田信玄上洛も信玄病死で失敗、時勢は織田信長へ傾きかけた、天正元年(1573)八月。
山本山城主阿閉貞征が信長に降伏すると、織田軍は小谷城背後へと回り、北国街道を封鎖して越前との連絡を絶った。
これを見た大嶽砦北西の焼尾の砦の守将浅見対馬守も、信長に降伏した。
その後、織田軍は嵐に乗じて対馬守の案内で大嶽砦を急襲し、砦を守っていた朝倉勢は敗走した。
翌日には、小谷城救援は不可能と判断し、撤兵を図った義景を信長勢が追撃し、そのまま朝倉氏を滅亡に追い込んだ。
小谷城も、同月二十九日ないし九月一日に落城し、浅井氏も滅亡した。
登り甲斐があります。
水分補給をしっかりと。
おおづく と読むそうな標高495m、小谷城砦群の一番高いトコ。
9月に福寿丸側の尾根から登ってきたら草深いトコロがあった。
大嶽まで〇〇m,の標柱が ちょくちょくあるので距離はわかりやすい。
(^^ゞチクチクするな~と思ったら蚊の大群に攻撃されてた。
ここの蚊は作業着長ズボンも針がつらぬくようだ(ToT)段々曲輪に切岸、長~い土塁など遺構はなかなか広範囲♪福寿丸~大嶽~本丸の小谷城V字フルコースを城郭遺構見ながら歩いたら5時間。
これに虎御前山を加えて丸一日 織田、浅井の歴史をたっぷり楽しめた♪(^_^)/
名前 |
大嶽城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.1 |
☆小谷山頂の標高495mの城郭。
浅井氏初期、1525年(大永5年)には小谷城存在、最初の小谷城の主郭本丸は「大嶽」、後に東尾根筋に移転、連郭式に😲1572年織田軍襲来に備え朝倉軍が入城し曲輪を増築強化、主郭の周囲を土塁で囲み、段々状に円郭式のように帯曲輪や腰曲輪に横堀・堅堀・切岸と色々な縄張が見れます、状態良好👀周りの樹木が無ければ、小谷山東尾根や清水谷、虎御前山や湖北方面を全て見渡せ眺望良好でしょうね❗️