地域に根ざした神社です。
四面宮を探して行ったところ、何だか迫力のある境内だった。
キリシタン大名有馬晴信の攻撃やら島原の乱やらで破壊された筈だが、再興されて後にも信仰を集めたようだ。
雲仙の温泉(うんぜん)神社は、元は四面宮といい、分身末社として山田神・有江神・千々石神・伊左早神の四神を麓に置いたという。
その四面宮の一が当社であり、同じ社名で同じ神を祀る。
温泉神社(旧称 四面宮)「祭神白日別命 豊日別命 速日別命建日別命 豊久士比泥別当社の創建は不詳であるが、通説として伝えられていることは、『歴代鎮西要略』に記載されている『大宝元年(701)、温泉神(在雲仙)の分身末社として、山田神、有江神、千々石神、伊佐早神』の四神が麓神として鎮座したという記録を典拠としている。
また温泉神社は別当寺として満明寺一乗院を併置し修験道が行われ、当社も一乗院の支配下にあつて神仏混淆(神仏を併せて奉祀する)の社であった。
神社明細帳(明治8年編)は、「貞観三年(861)九月建立、寛永十四年(1637)キリスト教の乱に社殿旧記悉く焼失」と記述しているが、天正18(1580)年、領主有馬晴信のキリシタン改宗政策により仏教破壊の指令に基づき仏教関係の破壊投棄が行われ、古来からの修験道の歴史はこの時一端断絶した。
島原の乱終結後、寛永15年3月再建され四面大明神として修験道も復活し金剛院の併置となった。
明治3年3月神仏分離の政策により再び仏教は分離され神社一元化となり温泉神社と改称された。
藩政時代は藩主松倉侯の崇敬も厚かったが、遠く肥薩豊日の参詣もあったと伝えられている。
境内出土の仏石は本殿裏の遺跡苑に奉祀され神仏混淆時代の面影を留めている。
」参道の少し離れた位置に大鳥居が立つ。
狭い道だが、それ故にか、印象的。
境内隣は児童公園になっているけれど、別当寺の金剛院があったらしい。
金剛院跡「 当温泉神社は温泉山(雲仙)四面宮の分身末社として奉祀されてきた。
明治3年3月、四面宮(雲仙)が筑紫國魂神社と改称されて神仏分離になるまで、別当寺満明寺一乗院が支配する修験道で、いわゆる神仏習合(神仏混淆)の神宮寺で、神と仏が一緒の場所で祭られていた。
したがって末社である当社も修験道(原始山岳信仰と仏教の密教的信仰が合体した宗教で山伏によって諸行事が運営されていた。
)が行われていた。
そうした時代の名残りが境内から出土する仏石であって、本殿裏に『四面宮遺跡苑』を設け神仏混淆の社であったことを立証している。
温泉山四面宮および四ヶ所の分身末社には、それぞれ修験道の寺院が付随し、雲仙四面宮に一乗院、山田神(現吾妻町)に感応院、有江神(有家町)に金剛院、千々石神に楞厳院、伊左早神(諫早市)に荘厳院があった。
古文書『聖護院末寺帳』(天保3年書写)に『隈田村に楞厳院同行金剛院』の記録があり、また天保9年編『諸事覚帳』および天保11年記の『島原御番人村役人面附』の隈田村の項に『山伏金剛院』の記事があり、島原諸手鑑(記年不詳)には『隈田村楞厳院弟子智存』とあって、これが何を意味するのか内容的解釈はまちまちであるが、代表的なものとして『隈田村には楞厳院の弟子である智存がいた』とされているが、金剛院との関連はあいまいである。
曽我石伝説、上臈ヶ水の伝説もあって金剛院の実際の在所はもう少し西寄り(現みかん畑)と、推定されているが確証はない。
」本殿裏に出土した仏塔その他が並べてあり、ちょっと怖い。
典型的な神仏混淆の場、ということは修験場として山伏が来ていたはず。
英彦山とも繋がりがあったかも。
だが、その痕跡はとっくに消えていた。
地域に根ざした神社です。
名前 |
有家温泉神社 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0957-82-2650 |
住所 |
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評価 |
3.8 |
もうすぐ、夏越祭です。