構江(かまえ)公民館敷地内に案内板あり。
早くどうする家康に出ないかな〜
西郷ノ局生誕地(西郷氏殿屋敷跡)所在地 静岡県掛川市上西郷2453-1築城年 天正6年(1578年)築城者 徳川家康形 態 居館遺 構 無し訪問日 2023/1/23現在、上西郷の構江(かまえ)公民館がある辺りが館跡であるらしいですが、遺構等は全くありません。
駐車場の脇に、居館跡の標柱と西郷ノ局の生誕地の説明看板が設置されています。
同じ敷地内にある、斎宮様の説明書に西郷ノ局が家康の側室になった折に戴いたとあり、婚礼にあたって徳川家康が贈った物か?流石です!将軍様。
奥方の実家に御屋敷を建てちゃうなんて🤑★西郷ノ局の生誕地西郷局(通称・於愛ノ方) 「1552〜1589」二代将軍・徳川秀忠公の御生母である「西郷ノ局」(さいごうのつぼね)は、幼名を於愛と言い、父は遠州掛川の郷士・戸塚五郎太夫忠春、母は三河五本松城主・西郷禅正左衛門正勝の娘・おさい(おさだ)の子として構江屋敷に生まれました。
天文23年(1554年)、戸塚五郎太夫忠春は大森の戦で戦死した。
その後、於愛の母は、やむを得ず於愛を連れて服部兵太夫正尚に再嫁したが、於愛もまた外祖父、西郷正勝の嫡男・西郷義勝に嫁ぎ2児をもうけた。
しかし、元亀2年(1571年)3月4日、夫の義勝が竹広の戦で戦死し、伯父・西郷清員(キヨカズ)の養女となった。
その後、浜松城に出仕して家康の目にとまる事となりました。
於愛ノ方は、天正6年(1578年)3月、浜松城の徳川家康公の側室となりました。
聡明で美しく性格も良く、家康公のみならず家臣や侍女たちからも愛されたと言われています。
家康と西郷ノ局の子は二代将軍 秀忠公 天正7年4月4日生尾張藩主 忠吉公 天正8年9月7日生家康公が浜松城から駿府城に移って間もなく、天正17年(1589年)5月19日、西郷ノ局、年38歳にて駿府城内で病死する。
法名、宝台院松誉貞樹大姉、駿府龍泉寺に葬られる。
秀忠公が二代将軍になると勅許を得て、従一位一品大夫人を送る。
龍泉寺は、西郷ノ局の法名をとり、寺名を宝台院と改め、三百石の寺領をあたえられる。
この地は、構江段と言い、斎宮を中心に北西に弓矢八幡宮、南東に若宮八幡宮を祀ってあります。
土塁・堀を巡らせ、東門・三日月堀・殿屋敷と伝わる。
戸塚五郎太夫忠春は、この地方の豪族で足利義晴に仕えた。
元は西郷の戸塚に住したが、後に館を構江に移した。
忠春の記録は少ないが、先妻の子が二人あり兄を四郎左衛門忠家といい、初めは今川家に仕えていたが、のちに家康の旗本になり武州忍城の城代となる。
その子、作右衛門忠光の時、千五百石に加増され、子孫は代々家督を継いだ。
また、弟は仏門に入り、心翁と称し西郷法泉寺の七代住職、後に江戸天竜寺中興開山となる。
構江(かまえ)公民館敷地内に案内板あり。
西郷ノ局は幼名から「お愛の方」とも呼ばれ、徳川家康の側室として三男秀忠、四男松平忠吉を産んでいる。
秀忠が二代将軍となったので将軍の母である。
その父、戸塚五郎太夫忠春は今川家に仕え構江の地を治め構江屋敷と呼ばれたこの地にて西郷ノ局が生誕したとされる。
屋敷は土塁、堀を張り巡らして城郭化されていたという。
名前 |
西郷ノ局生誕地 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.8 |
NHK大河ドラマ どうする家康で静岡出身の広瀬アリスさん演じるお愛の方、西郷局「さいごうのつぼね」こちら 掛川市 上西郷 構江 が生誕の地。
二代将軍、徳川秀忠公の生母です。