境内の二本の大楠は推定樹齢800年。
六所神社 志摩総鎮守 / / / .
立派なクスノキのはか、「筑前一高い 挙げる賽銭箱」があります!春先は桜のライトアップもしています。
よそで、2・3・5・8・12の「○所神社」を見つけたことありますが、同じ系列の神様なのでしょうか?
桜満開の時に行きました。
今は八重桜が綺麗ですよ👌境内もよく手入れされているようで、ステキな神社です。
境内側から正面道路を見ると、車がこちらを向かって走って来るように見えて、なんだかちょっぴりドキッとしますよ‼️
初めて参拝しましたが私的には凄く心地良いと思えた神社でした。
広く無い神社です。
本堂左手に御神木の楠の木が手前と奥に2本ありました。
御神木にお参りしていると心地良い風が吹いてなんだかパワーを貰っている感じがして元気になりました。
御朱印1種頂きました。
絶対にマタ参拝に行きたいと思います。
御祭神熊野三神伊弉册尊,速玉男命,泉津事解男命住吉三神底筒男命,中筒男命,表筒男命神功皇后により祀られたという。
ーーーーーーーーーーーーーーーー郷社 六所神社大字馬場字長谷にあり。
祭神は熊野三神(伊弉册尊,速玉男命,泉津事解男命)住吉三神(底筒男命,中筒男命,表筒男命)なり。
祭日は二月二十七日より二十八日まで,七月二十七日より二十八日まで,十一月二十七日より二十八日までとす。
社地樹林繁茂し人煙幽邃なり。
社の西南竹林の中に神池あり。
昔は本社を距ること西二里許りなる小金丸右の濱(幣濱か)に頓宮ありて行幸し神輿本宮に還れば伶人巧に俳優(ワサチキ)を作して神を楽しましめきと云ふ。
馬場の田字に棧敷と云ふ所あり。
又猿楽堂の跡あり。
社家に粕屋郡中原邑の田税を以て祀傜を給する等の古牒ありと。
後奈良天皇の享禄四年大友修理太夫源義鑑本社を造営せり。
棟札に泰造立仕馬場六社大明神御本社一宇,大檀那豊後國大友修理大夫源朝義鑑公,御武運長久息災所十二月十一日,奉行臼杵安藝守藤原朝臣親連,神主行弘大和中原朝臣正道とあり。
(親連を草場山の城主なり)。
其後社殿頽破せしを慶安三年寅春藩主黒田忠之執吏に命して神宮を造らしめ舊貫に復す。
貞享三年丙寅の秋黒田光之,元禄十六年癸未黒田綱政相次いで修理を加ふ。
此頃本社帯る所の邑五あり,曰く馬場,松隈,由美,新田,津和崎是なり。
元禄年間居民寄附する所の祭田凡壹町六段五畝歩(貳段馬場,九段松隈,壹段井田原,貳段前原,壹段由美,壹段新田,五畝津和崎)ありき。
筑前神社気に『當郡の宗廟にて昔は大社なり波多江村にて五十町の神領あり』とあり。
明治四十三年一月友池直助田壹町五歩を寄附せり。
大正四年馬場区氏子三千餘圓を醵金して神殿渡殿を改築せり。
享保十九年甲寅三月稲留希賢の撰に係る縁記あり。
又由比家文書に據ればもと由比社と称し,天文年中由比和泉守盛正の三男連正由比の社務職を統へしこと見ゆ。
境内神社二,現人神社,巖島神社糸島郡誌ーーーーーーーーーーーーーーーー懸社 六所神社 糸島郡可也村大字馬場字長谷祭 神伊弉册尊,速玉男命,事解男命,中筒男命,表筒男命,底筒男命由 緒古老の口碑には神功皇后異国退治帰朝の船當郡小金丸村右の濱と云ふ所に着其時鎮座すと云伝ふ。
皇后鎧の草摺石となりしとて右の濱に鎧石有り毎年九月二十七日右の濱に仮宮を立て神輿を奉休,然して馬場本宮に着給ふ尊神西境の鎮守なる故に世々此國郡を領する國主領主社領を寄附し社殿を經營す,往古は大社にして神田當郡於波多江村五十町寄附中世屢々兵亂に祭田不貢宮頽壌す,寛永辛未年國主黒田忠之再建筑前早鑑神社記筑前神社由来記唐にも見ゆ,明治五年十一月三日郷社に定められ,昭和八年三月十日懸社に列せらる。
尚社説に述ぶる所次の如し。
當社は熊野三神住吉三神を祭り,御鎮座の年代は古くして文書に徴すべきもの無けれども,中世の文書伝説等に依れば神功皇后異国退治の時,尊神御船を守護し給ひ刄(?)に衂らずして異賊降参す。
皇后御帰朝の時御船を當村小金丸右の濱(幣の濱)に着御御上陸,本神を御祭祀の上國の守護神として奉鎮座と云ひ伝ふ。
皇后の御鎧の草摺石となりしと云ふ,摺石右の濱にあり昔は毎年九月二十七日右の濱に仮宮を立て御神幸をなし奉り,御還御の際小金丸に熊野権現異国より渡り給ふ時御腰を掛け休み給ひたると云い伝ふる横三尺縦四尺位ありて底深く地中に入りたると伝ふ,此の石に御神輿を奉休し御神意を慰め奉りと云ふ,其の石を輿掛石と云ふ。
其の附近に棧敷と云ふ地名も残れり,然して後ち馬場本宮に着せ給ひて,祭儀殷盛を極めたりと云ふ。
尊神西境の鎮守なる故に世々此の國郡を領する國主領主社領を寄附し社殿を經營す。
往古は大社にして本社殿は享禄四年十二月十一日豊後國大友修理大夫源朝義鑑公改築し,廢したる神幸を再興し祭典等も厳重に行はれ,大宮司官巫女等多数ありて殷盛を極めたりしに天正の頃屡々兵乱に遭遇し,當郡波多江村に五十町,粕屋郡中原村の内七町歩,當郡小富士村邊田に一町五反歩の社領を有せしも悉く没収せられ,遂に祭田不貢社殿頽壊せしを,寛永辛未年國主黒田忠之再興社殿を改築し三十六歌仙簾銘刀等を寄進し,爾来代々國主より修繕せられ,筥崎宮を一の宮とし本宮を筑前二宮として郡奉行大庄屋等に令して社殿相継ぎて修理を加へられ,中古志摩郡の総社と崇め祭典厳重に奉仕せらる。
殊に雨を乞い霽れを祈られるゝ時は,必ず家臣を代参せしむるを常とし,元岡村大庄屋は觸下二十ヶ村御庄村大庄屋は觸下に十八ヶ村に令して参列せしむるを常とし来れり。
明治五年十一月三日村郷社に列格し昭和三年九月三日神饌幣帛料供進指定神社に指定せられ,昭和八年三月十日懸社に昇格せり。
享禄四年以後の六所神社棟札左の如し,享禄四辛卯歳十二月十一日泰造立馬場六社大明神御本社大一宇大檀那豊後國大友修理太夫源朝臣義鑑公御武運長久延命息災所寶永八月辛未十二月十三日欽泰造改馬場六所大明神御寳殿同拝殿二宇国主右衛門佐侍従源朝臣忠之公命工御當作也御武運長久息御子孫繁攸。
慶安三庚寅歳三月十三日。
元禄十六癸未歳十二月十九日。
享保二丁酉歳八月十六日。
元文元丙辰年九月二十六日延享五戊辰年六月五日。
寳暦七丁丑五月吉日。
寛政十三辛酉年二月等,外に四枚の棟札を有す。
例祭日九月二十八日神饌幣帛料供進指定昭和三年九月三日主なる建造物本殿,弊殿,拝殿,神饌所,手水舎主なる寳物御神鏡,菜桐御紋入水引幕,縁起一巻,棟札十五枚,三十六歌仙絵馬,翁面一對,大刀三口,絵馬五枚境内坪数一千九百九十七坪氏子区域及戸数大字馬場区 戸数三十戸境内神社現人神社蒼稲倉魂大神(保倉神)末社巖島神社(市杵島姫命)福岡県神社誌 中巻ーーーーーーーーーーーーーーーー六所神社の大楠福岡県指定天然記念物六所神社の社前(1号木)とその横(2号木)にある楠木は,県内屈指の大きさを誇る巨木として貴重である。
六所神社の創建は神功皇后伝説に由来があり,社殿造営は,中世初頭まで遡れる。
神社には享禄四年(1531年)の大友義鑑による社殿改築の棟札が伝わっており,その頃に一旦大幅な社殿の改修があったとみられる。
天正年間に兵火に遭い,その後,荒廃していたが,寛永八年(1631年)福岡藩主黒田忠之によって再興され,近世志摩郡の惣社となった。
このような幾度の社殿の興廃の歴史に耐え,境内の大楠は樹勢旺盛でよく繁茂しており,樹齢はおよそ八百年を越えるものと推測される。
1号木が,胸高幹周8.5m,根廻り24m,樹高28m,2号木は胸高幹周7.5m,根廻り24m,樹高29mを測る。
現在胸高幹周に比して根廻りが大きいのは,後世の社殿の再興造営に際し,地面を切り下げたため根本が露出したものと考えられる。
平成22年1月糸島市教育委員会境内掲示説明板ーーーーーーーーーーーーーーーー狛犬:石工 原口四郎。
名前 |
六所神社 志摩総鎮守 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.4 |
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駐車場が分かりにくいですがあります。
社務所はありますが基本的一人がおらず御朱印は近くの熊野神社に行かないといけないようです。