值得一看,上边还有张作霖题的字。
蒙古塚(蒙古軍供養塔) / / .
志賀島をぐるっとまわって駐車場があったので止まりました。
そこがここでした(笑)そこからの景色です。
元寇の際の元兵の犠牲者を祀る供養塔です。
金印公園から志賀島資料館に向かう途中にありますが、時間の余裕がある人が立ち止まるぐらいでいいかと思います。
先人達、そして蒙古軍の方々が犠牲を払われた供養塔。駐車場は8台程無料で駐車可能です。段差も有るため全てがバリアフリーではありません。目の前は綺麗な海が広がってます。
人気(ひとけ)は無い。
モンゴルの方々が建立されたと思われる墓碑銘がほとんどで、日本でありながら日本で無いような不思議な空間だ。
何とも言えない。
手を合わせる。
それにしても本当によく耐え忍んだ。
先祖に感謝します。
元寇は皆歴史の授業で知っているでしょう。
この地でこんなことがあったのかと思い起こす程度の場所。
志賀島に行ったついでに寄る程度の場所。
(20201011)
新しく供養塔が作られたが、駐車場より勝馬よりに昔の供養塔があるが立ち入り近所。
海を見渡せる気持ちが良くパワーありますよ。
二度の元寇、決して忘れてはならない歴史です。
蒙古塚は、志賀島南西部の県道542号線(金印海道)沿いにあります。
文永11年(1274年)10月20日、対馬と壱岐を攻め尽くした元と高麗の連合軍が博多に来襲(元寇)しました。
鎌倉幕府は西国の御家人を中心に敵軍を迎え撃ちますが、従来の武士同士の戦い方とは異なる戦法に苦戦し、多くの御家人が討たれました。
ところが、その夜には連合軍は船に戻って撤退します。
そしてそれに追い打ちを掛けるように玄界灘は暴風雨となり、多くの船が沈没してまいました。
『八幡愚童訓』によると、翌日、志賀島に元軍の船が座礁しており、投降してきた兵を生け捕りにしてその首を刎ねたといいます。
その数は約220名に及んだとされます。
このときの処刑の場となった所に蒙古塚が立てられています。
供養塚ができたのは昭和3年(1928年)、日中友好として造られたものです。
供養塔の文字は当時の首相であった田中義一によるもの、また満州の軍閥であった張作霖も賛を送っています。
かつては北側の丘陵上にありましたが、平成17年の福岡県西方沖地震により大きな被害にあったため、南側の現在地に移されました。
海を隔て、毘沙門岳と柑子岳にはさまれた今津の海岸線が美しいです。
志賀島に元軍の船が座礁しており、投降してきた兵を生け捕りにしてその首を刎ねたという。
その数は約220名に及んだとされる(ここで打ち首になった捕虜は120名とも)。
このときの処刑の場となった所に蒙古塚が立てられている。
この供養塚ができたのは昭和3年(1928年)、日中友好として造られたものである。
供養塔の文字は当時の首相であった田中義一によるもの、また満州の軍閥であった張作霖も賛を送っている。
この供養塔は平成17年(2005年)の地震で倒壊、2年後に再建されている。
新しく 整備されたので 行ってみて‼️
日蓮宗による供養です。
塚には上がれませんでした。
看板など無いので海を見ながらドライブしていると、通り過ぎてしまう 小さめの駐車場有り。
ゲームで出てきそうな謎の文字が刻まれた石碑 好き。
蒙古軍来襲時に地元民が負傷者を看病したり死亡者を手厚く葬りました。
あまり普段の生活で目にしない造形や文字を見ることが出来ます。
ここだけ海外か?後ろを振り返るとタイムスリップするのではないか?というような不思議な空間です。
志賀島はリゾートな場所と良く勘違いされておりますが、歴史の深い、当時の面影が残った状態で波音だけが響いている場所です。
金印公園に行く人は多いけど、蒙古軍供養塔を訪れる人は意外に少ない。
いつも余り人の姿がないため、ゆっくり見学することができる。
值得一看,上边还有张作霖题的字。
名前 |
蒙古塚(蒙古軍供養塔) |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
評価 |
3.6 |
歴史がよくわかりました。